山田真山は、沖縄県を代表する彫刻家・日本画家です。
1919年に第1回帝国美術展覧会に『審判の来る日』という彫刻作品を出品したことで注目が集まったことや、世界平和を祈って沖縄に観音像を制作したことで有名です。
山田真山の本名は、渡嘉敷兼慎(とかしき けんしん)で、幼いころからの呼び名は真山戸(まやまと)でした。物心がつく頃から絵を描くのが好きだった山田真山は、よく近所の塀などに炭で絵を描いては怒られていたそうです。家が貧乏で絵の具や紙などがなかったため、母親はそんな山田真山を見て、母の手に描くように言いました。
手先が器用であった山田真山は大工の親方に見込まれて上京しますが、柱に絵を彫ってしまい辞めさせられてしまいます。その後は、牛乳配達のバイトで貯めたお金で東京美術学校に通いはじめ、そこで高村光雲、山田泰雲に教えを受けます。この頃、山田泰雲の養子に入り、真山戸から山田真山となりました。
二人の師から彫刻と絵画を学んだ後、北京で2年程彫刻や絵画の講師を務め、中央美術界の一線で活躍をします。1914年に文展での入選をはじめとして、数々の作品が入選していきました。
第二次世界大戦が始まった頃に沖縄に戻っていた山田真山は、この戦争で二人の息子をなくします。この戦争の悲しみや苦しみから、世界平和への気持ちを強く持つようになります。これをきっかけに約20年かけて観音像を制作することになったのです。観音像を作り始めたとき、山田真山は73歳で、しかも十分な資金がなく時間がかかってしまいました。それでも、山田真山の強い平和への気持ちや芸術への情熱から、亡くなる92歳までつくり続け完成させました。
山田真山の沖縄平和祈念像は平和祈願と戦没者追悼のために建てられた沖縄記念堂に現在も安置てされています。