江戸時代の陶工、絵師。
名は惟充、通称は権平。号は深省、霊海など多くあるが、一般には窯名として用いた乾山の名で知られる。次兄は尾形光琳である。
1663年、京都の呉服商・尾形宗謙の三男として生まれる。1687年に父宗謙が逝去し、膨大な財産を兄と共に譲り受ける。遊び人で派手好きな兄光琳が財産を放蕩に費やしたのと対照的に、乾山は内にこもって書物を愛し、参禅、思索する内省的な生活を好んだ。陶芸に関しては本阿弥光悦の孫である空中斎光甫から手ほどきを受け、野々村仁清から本格的に陶芸を学んだ。
1689年、仁清の工房に近い仁和寺の南に習静堂を構え陶器製作にいそしみ、10年後の1699年には二代目仁清から「陶法伝書」を授けられる。そしてかねてから昵懇である二条綱平から鳴滝にある山荘を譲り受けたことから、ここに初めての窯を開く。場所が都の北西(乾)の方角にあたることから作品に「乾山」の銘を記した。
この鳴滝窯には二代目仁清と押小路焼の陶工孫兵衛が参加しており、乾山はこの両人から御室仁清焼と押小路内窯焼の伝を受け継ぎ、白化粧と釉下色絵(ゆうかいろえ)などに代表される乾山窯独特の釉法が確立された、この時代の作品は鳴滝乾山と呼ばれる。
しかし1712年には居を二条丁子屋に移し、清水あたりの窯を借りて色目もはなやかな、世間受けする食器類を多く作り生計を立てる。ここでの暮らしはおよそ20年間で、寒山が器を作り、兄の光琳がそこに絵を描いた兄弟合作の作品も多く、意匠の秀抜さと色目の豊かさを受けて人気があったという。
1731年、乾山69歳の時、江戸へ下向し、寛永寺領入谷に窯を築いた。この数年後には下野の佐野にも一年余り逗留して作陶した。この時期の作品は入谷乾山と呼ばれている。
1743年7月、江戸にて逝去。享年81歳。