江戸時代の京焼の名工、文人画家。
幼名は八十八、号は九九鱗や青来など数多い。木米とは幼名の画数をまとめて米とし、屋号の木と合わせて称した。
1767年に京都祇園の茶屋「木屋」の長男として生まれる。少年の時に高芙蓉に書や古器物の鑑賞することを学ぶ。木米が1820年に記した「上奥殿侯書」によると、本来は陶工ではなく文人墨客の家で古器を鑑賞することを趣味としていたが、29歳の時、大阪の文化人である木村兼葭堂を訪ねた折、その書庫で「龍威秘書」に所収されている中国清朝の大朱笠亭の著「陶説」を読んで感銘を受け作陶を一生の仕事とする志を固めた。
早速、建仁寺に住んでいた奥田頴川(えいせん)に入門。1796年の30歳の頃、京都・栗田口に窯を開き作品を作っていく。1805年には栗田静蓮院宮の御用を拝命するほどになる。木米は頴川の始めた磁器製法を基に、文人風の染付、青磁、南蛮写しなどの煎茶器を主とした鑑賞性の高い陶磁の制作を行い、江戸後期らしい多種多彩な焼き物を残した。
1806年には加賀窯業復興のため、加賀に招聘されて青磁、金蘭手、色絵などを焼き、加賀九谷焼の再生に尽力する。また文人画家として「兎道朝暾図(うじちょうとんず)「新緑帯雨図」「騰龍山水図」などの秀作も残している。
1833年7月、逝去。享年66歳。
エピソードとして、木米は窯の温度を窯の中の燃える火のパチパチという音で判断していた。そのため耳はいつも赤くはれ上がり、完治する間もなく作陶を続けたので、晩年には音を失くしてしまい、以後木米でなく聾米(ろうべい)と号したという。