京焼の陶芸家で、千家十職の一つである土風炉師・善五郎の12代として活躍しました。
江戸後期を代表とする陶芸家の一人、永楽保全(11代・永楽善五郎)の長男として生まれ、幼名を仙太郎といいます。
永楽家は初代から9代までは西村姓を名乗っており、10代以降から永楽姓を名乗るようになりました。
この「永楽」姓に改姓したのは和全であり、10代まで遡って改姓されました。
永楽家では、代々、土風炉、茶碗などを制作し、一時は家の存続が危ぶまれましたが、三千家の援助もあり、再興し、現在は17代まで続いています。
そんな永楽家に生まれた永楽和全ですが、21歳という若さで12代・永楽善五郎を襲名しており、父・保全が驚くほどの技術を持っていたと言われています。
義理の弟・宗三郎(回全)と共に仁清窯跡に御室窯を築窯し、本格的な作陶活動を行った事で知られており、特に義弟の協力は大きいものでした。
息子に永楽善五郎の名を譲ると隠居し、「善一郎」と名乗るようになり、隠居した後も加賀大聖寺藩に招かれて山代で九谷焼の指導を行なうなど、精力的な活動を続けました。
明治維新後は愛知県岡崎で岡崎永楽と呼ばれる磁器を制作しており、晩年には京都下河原に菊渓窯を築窯しています。
その作風は赤絵、交趾焼、仁清写、金襴手、青磁などに優れており、茶碗、香合、平皿などを手掛け、コーヒー碗やスープ皿といった洋食器の制作を行うなど幅広い作風で知られています。
また、神社仏閣での献茶や大寄せ茶会のための華やかな茶道具も作り出し、父・保全が残した負債に苦しめられながらも、後代に基盤を残す事に成功し、今の永楽家の様式を確立させました。