栃木県出身の昭和~平成時代に活躍する日本の陶芸家です。
益子の土を用いて白化粧を施し、銅の釉薬で臙脂や紅色を発色させ、ブドウ、椿、梅など身近な植物をモチーフにした「鉄絵銅彩」を追求している事で知られています。
この作風は田村耕一に強い影響を受けて取り組むようになったもので、田村耕一が鉄絵の描写に優れていた事に対し、神谷紀雄の鉄絵は紬裏紅で草木や果実を描き、ほのぼのとした温かみのある作風へと確立させたものでした。
栃木県益子にある神谷家は、江戸時代末期の益子焼創業とともに始まり、窯はその中心とも言える道祖土(さやど)にありました。
その窯元4代目として生まれたのが神谷紀雄でした。
しかし、神谷紀雄には陶芸をやるつもりはなく、進路に悩んでいる時に父親から「大学に行くなら美術学校なら金を出してやるが、それ以外は自分で行け」と言われました。
この言葉の裏には「民藝ではなく陶芸作家を目指せ」という沈静化した益子の地で神谷家が生き残るための父親の打開策だったのです。
こうして神谷紀雄はこれまで縁のなかったデッサンに取り組み、わずか1ヶ月で習得し、多摩美術大学に合格します。
陶芸の魅力に取り憑かれた神谷紀雄は横浜で暮らしながら益子の土を使用して土づくりから窯焚きまでを大学に通いながらこなし、多くの先輩作陶家と親交を深め、自らの作風を築き上げていきました。
その中で大きな影響を受けたのは東京藝大学教授の加藤土師萌でした。
同じ私鉄沿線に窯を構える関係という事で交流が始まり、第三京浜の用地買収で窯を移さざるをえなくなった神谷紀雄に対して「横浜から有望な陶芸家が一人いなくなってしまう」という励ましの言葉が贈られるほどの仲だったようです。
多摩美術大学を卒業すると千葉市東寺山に登り窯を築き、益子から取り寄せた土を数種類混ぜ合わせて制作活動を行うようになり、これは現在まで続いています。
しかし、益子の土はロクロ挽きには向いておらず、可塑性に難がありましたが試行錯誤の末、土が生きているような印象を与える形を手に入れる事ができました。
また、益子の土にこだわっている事から化粧土も益子のものを使用していましたが、近年では白い天草陶石とカオリンに切り替え、絵柄をよりいかすための工夫を加えるなど鉄絵を追求し続けています。