高取焼の窯元である味楽窯の当主が代々襲名する名前で、当代は15代となっており、その歴史は黒田藩時代にまで遡ります。
黒田長政が朝鮮出兵の際に連れ帰った陶工・八山によって高取山に窯を築き、焼物を始めたのが高取焼の始まりとされています。
その後、小堀遠州好みの茶陶を数多く焼いた事から、遠州七窯の一つとされ、黒田藩の御用窯をつとめました。
高取焼は、七色の釉薬を用いる事と、指で弾くと磁器のような高い音が出るほどの薄造りが特徴で、全国の陶芸家たちからは「高取焼だけは真似したくない」と言われるほど、高度な技術を必要とする焼物です。
味楽窯はそんな高取焼の伝統を受け継ぐ窯として今日まで継承してきました。
しかし、13代の時に高取焼窯元は廃藩の影響で藩主の保護がなくなり、必然的に自立自営を余儀なくされ、窯元は個人企業の形態に移行せざる得なくなります。
そんな中13代は、太宰府天満宮の裏山にある山伏の修験場宝万山亀井坊の名を取り「亀井」と改姓し、亀井味楽窯の当主として高取焼の窯の火を守り抜き、孫に高取焼の技術の全てを教えました。
その孫が14代を継ぎ、江戸時代の高取焼の再現に取り組むようになります。
また、修行中に見た福岡・崇福寺の寺宝「金結晶釉天目茶碗」に魅せられ、これを復元する事にも取り組み、失敗を繰り返しながら50年かけて金彩釉を発表する事に成功しました。
この他にも伝統技法を駆使した絵高取の作品も新境地として高い評価得ています。
こうして、14代の長男として生まれた当代はしっかりとその技法と意志を受け継ぎ、高取焼と味楽窯を守り続けています。
14代には弟がいて、亀井楽山と名乗り、分家して楽山窯を築き独自の高取焼を発展させています。