笠間焼は江戸時代中期頃から茨城県笠間市周辺で作られ始めた焼物で、特徴が無いのが特徴だといわれています。
しかし、笠間の土は焼き上がりの収縮率が高いので出来上がった作品は硬くて丈夫な事で知られており、これが最大の特徴ともいえます。
笠間焼は久野半右衛門という人物が信楽焼の陶工である長右衛門に見込まれた事と、地元の土が良質だったこともあり、長右衛門の指導により開窯したされています。
その後、久野瀬兵衛が引き継ぎ長右衛門の弟である吉三郎とで盛り立て、笠間焼の前身である箱田焼と呼ばれる日用雑器を焼いていました。
後に、笠間藩主・牧野貞喜によって産地奨励や生産を高め仕事を後世に伝えるために、お庭焼を下屋敷付近に開窯させ、仕法窯を領内の6ヵ所に設置しました。
これらを行う事で製陶業は発展し、江戸に近かったことから利根川を利用した販路拡大に成功しています。
また箱田焼の近所で作られていた笠間焼の源流とされる宍戸焼という焼物があり、これは技術や技法、原料も全く同じものを使用していたために明治時代になると総合的名称で「笠間焼」として販売されるようになったとされています。
笠間焼は伝統を守りながらも、伝統に固執しない自由な作風が特徴的で、釉薬の掛け流し、重ね描き、青すだれ、窯変などの釉薬による技法も見られます。
現在も民窯で作られており、硬くて丈夫でありながら独特の温もりを感じる事の出来る暮らしの焼物として国内外問わず人気があります。