紀州(現・和歌山県)藩出身の江戸時代に活躍した茶人です。
「不白流の開祖」「江戸千家流の開祖」として知られ、当時としては90歳という長命であった事から長寿茶人として幅広く人気を博しました。
そのため、茶碗や書などを残しており、中古市場でも高値で取引されています。
紀州藩水野家の家臣川上家の次男として生まれた川上不白は、16歳の時に京都へ行き、表千家の中興の祖といわれる表千家7代・如心斎のもとで修行を重ね、22歳の時に「宗雪」の茶号を授与されました。
京都では三千家の改革期を迎えており、如心斎を中心に川上不白も高弟として小間から広間への茶道、「七事式(しちじしき)」の制定など、現在行われている茶道の基盤作りに尽力しました。
如心斎の命により江戸へ下り表千家流茶道を「江戸千家」として広め、江戸では「黙雷庵」を営んでいましたが、如心斎が亡くなり一時京都へ戻ります。
再び江戸へ戻り、「蓮華庵」を営むと水野家茶頭職としての活動をはじめ、大名や豪商から町人・職人に至るまで幅広い層に茶道の手ほどきをして表千家の普及につとめました。
嗣子(家を継ぐ者)の自得斎に水野家茶頭職の家督と宗雪の茶号を譲り、自らは孤峰不白と名乗ってからも30年間にわたって活躍しており、京都とはやや趣を異にした江戸の町人文化の影響を色濃く受けた江戸前の茶風を作り上げ、表千家よりゆるしを得てて「江戸千家」を称しました。