宮川香山(2代)を買取ります
宮川香山(2代)は初代・宮川香山の兄・長平の子として生まれた2代・宮川香山は実の父親が亡くなってしまったため、初代・宮川香山の養子として育ちました。
初代が生み出した、世界でも賞賛されている真葛焼を継承し、宮川香山の名前を襲名しましたが、初代が海外輸出に力を入れていたのに対して、2代・宮川香山は国内需要の方が高く、高級品以外にもご飯茶碗や向付など日用雑器や企業向けのノベルティーの制作を行っており、大量生産型の作品が多いのが特徴です。
大正期以降は東洋陶磁の伝統様式に回帰し、中国陶磁や仁清・乾山などの色絵陶器をベースにした気品ある精巧な作風を展開し、明治初期以降は伝統様式を積極的に革新し、真葛香山の名を確固たるものにしました。
宮川家は伝統ある京焼の名門ですが、その始まりは宮川小兵衛政一が貞享年間に近江国坂田郡宮川村から京都に出て、知恩院門前に居を構え、焼継や陶料一般を商っており、この時はまだ陶芸とはあまり関係がありませんでした。
その後、長男・治兵衛政重と次男・長兵衛がそれぞれ分家し、治兵衛政重が五条坂に茶碗屋治兵衛家を興し、その末裔が宮川香斎を名乗るようになりました。
一方、次男・長兵衛の末裔は神奈川県横浜市で作陶を行い、宮川香山として高度な技術を用いた輸出用の陶器の制作を行っていました。
この輸出用の陶器制作と宮川香山の名前は代々受け継がれるようになりましたが、戦時中に横浜大空襲を受け工場は壊滅的となり、宮川香山の工場と3代・宮川香山の命は戦争によって奪われる形となりました。
その後、3代・宮川香山の弟が4代を襲名しましたが再興叶わず、宮川香山は廃絶となってしまいました。