松林豊斎は桃山時代の流れを汲む朝日焼の窯元の当主が襲名している名称ですが、松林豊斎の名を襲名するようになったのは15代からで、それ以前は陶作、長兵衛などがあります。
朝日焼は小堀遠州の指導のもと、慶長年間より焼かれている焼物で、宇治の土を使い、窯変で斑紋を呈す鹿の背中のようなまだら模様の鹿背や淡紅色の燔師など上品な美しさが特徴の焼物で、遠州七窯の一つに数えられています。
朝日焼という名称は朝日山という山の麓で窯が開かれていたという説と、朝日焼独特の赤い斑点が旭光を思わせるという説が挙げられています。
初代の時に小堀遠州から「朝日」の二文字を与えられた事が開窯とされており、以来、朝日焼の伝統の技を受け継いできました。
2代の時には小堀遠州の三男・権十郎から「卓朝日」が与えられており、当時焼物に窯名を押印することがまだ珍しい時代でしたが、松林豊斎の窯では「朝日」の文字を押印するようになりました。
しかし、5~7代の頃は陶芸だけでは生活する事が難しく、半農半陶の生活を余儀なくされました。
その後、8、9代は復興に奔走し、庭田公卿の力添えで再興させ、現在までその技は受け継がれてきました。
当代は15代となっており、日本全国で個展を開催しており、茶碗や茶入などの茶陶を中心に制作を続けています。
また、襲名10周年を記念して「源氏物語宇治十帖」に因んだ作品を発表しており、高い評価を受けています。