佐賀県出身の昭和~平成時代に活躍した日本の陶芸家です。
唐津焼の第一人者として活躍し、見事なロクロ技術で計算しつくされた精巧なフォルムを生み出しています。
父親は12代・中里太郎右衛門で、その三男として生まれ、兄は13代・中里太郎右衛門という陶芸一家で育ちました。
幼い頃から父親からロクロや窯焚きなどを徹底してたたき込まれ、有田青年学校では父親を超えるロクロの名手と出会い、「職人は体で技術を覚えるもの」という事を実感しました。
こうしてロクロを一心に回し続け、理屈抜きに体に技術を染み込ませるように覚えさせていきました。
戦後は家に呼び戻されると陶芸家としてではなく、開墾し畑を耕す日々を送ります。
当時は戦後の動乱で焼物が売れるような時代ではなく、制作活動も年に2、3回という伝統を守り続ける陶芸家の家とは思えない活動ぶりでした。
それでも陶芸家としての心は忘れず、日展に初出品した作品が入選となると父親の片腕として窯を切り盛りし、市街地から離れた山あいに三玄窯を築いて独立します。
また、唐津焼古窯跡の研究も熱心に行い、割り竹式登り窯を築きました。
また、東京の国立博物館で見た中国・宋時代の瓶の象牙色をした柔らかい色合いの粉引に魅せられ、白生地のない唐津焼で粉引の技法を確立させ唐津焼の新たな可能性を示しました。