京都府出身の昭和時代に活躍した日本の陶芸家です。
14代・楽吉左衛門を襲名しており、楽吉左衛門とは千家十職の一つ、楽焼の茶碗を作る茶碗師の楽家当主が代々襲名している名前です。
3代・道入以降の各当主は、隠居した時に「入」の字を含む入道号を名乗りますが、楽覚入の場合、亡くなってから贈られたものです。
惺入(13代・楽吉左衛門)の長男として生まれた楽覚入は、東京美術学校彫刻科を卒業していますが、戦時中という事もあり、卒業してすぐに召集され従軍していました。
復員すると父親は亡くなっており、14代・楽吉左衛門を襲名しました。
しかし戦後という事もあり、物資不足や人々の茶道離れによって作陶は思ったように進まず、存続の危機に直面します。
やがて日本の景気も上向きになり、東京美術学校で近代芸術を学んでいた楽覚入は、これまでの歴代とは一味違う造形を見せており、特に立体に沿った的確な削りには構築的な力強さが感じられ、独自に緑釉、赤砂釉、幕釉、白釉などを研究し、作品も充実していきました。
世の中が落ち着いてくると、財団法人楽美術館を設立し、楽家に伝来した歴代の作品や資料を全て寄贈し、公開するなど日本の陶芸界に大きく貢献しました。