楽慶入は江戸時代から明治時代へと劇的に時代が変化した時に活動していた楽家11代目当主です。
楽家は茶道で知られている三千家に出入りする事が許されている楽焼茶碗師の楽家として代々活躍しておりますが、楽慶入は丹波(京都府)で酒造業を営む家に生まれ、幼いころから楽家に養われていました。
その後、10代目旦入の娘の婿養子となり11代目楽吉左衛門を襲名し、およそ26年後に隠居し慶入と号すようになりました。
この改号は隠居後に行われるならわしで楽家3代目道入以降に代々「入」の字を入れるようになっています。
楽慶入の時代は激動の幕末明治維新の時で、茶の湯を含む伝統芸能が西洋文化への移り変わりによって衰退していきます。
特に徳川家と縁のあった千家への風当たりは強く、楽家にも影響があったといわれています。
楽慶入の作品は時代の逆境に負けずに作品を作り続けており、萎縮すら見られず、逆にゆるりとくつろぐ事が出来そうな心の広さを感じる事の出来る作品を残しているという評価を受けています。
楽慶入の作品は3代目道入を思わせる作風で、技、釉薬の工夫も優れているといわれ、茶碗の他にも置物、水指、香合、花入など作域が広いことでも知られ、詩が書き込まれている作品など教養の高さ感じる事の作品もあります。
楽慶入の使用していた印は3種類で38歳までは蜘蛛の巣判「大綱印」、50歳までは「董其昌判」、隠居後は「白楽印」があります。
また2代目常慶の250回忌では「天下一」の印を使用しています。
実績として孝明天皇や有栖川宮家に火鉢や茶器を献上し、表千家により免許皆伝を受けるなど奮闘し、86歳で没しています。