楽長次郎(らくちょうじろう)は日本独自の焼物である楽焼の創始者です。
楽長次郎は楽焼の創始者で安土桃山時代に活躍した京都の陶芸家で、利休好みや千家好みの茶道具を作る事の出来る「千家十職」の1つである茶碗師の楽家が代々襲名している、楽吉左衞門(らく きちざえもん)の初代でもあるとされています。
楽長次郎の父は唐人で作品は残っていませんが楽焼のルーツである三彩陶の技法を伝えた人物で楽長次郎も色鮮やかな三彩陶の技法を使いこなせる焼物師の1人であったといわれています。
楽長次郎は楽家の代名詞でもある轆轤を使わず手づくねで成形する工法と黒釉を使う茶碗制作で類まれなる才能を見せ活躍していました。
楽長次郎の没後に同じく共に楽焼生産に関わり、長次郎の妻の祖父である田中宗慶(たなかそうけい)が手づくねで良質の土ではなく地元の土を使い個性を極力抑えた作風である事から千利休好みの侘びの風情であると認められ、豊臣秀吉から聚楽第の「楽」の印を与えられた事が楽家の始まりといわれています。
楽焼を考え出した千利休は黒にこだわりました。
黒はすべての色の始まりであり、終わりでもあり、抹茶の緑をより引き立たせることが出来るものと考えられ、楽長次郎の作風も黒を大切にしており禅の思想が感じられます。
また、装飾性や動き、変化などの個性を可能な限り抑え、どっしりとした存在感があるのも特徴です。