山口県出身の昭和時代に活躍した日本の陶芸家です。
豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に藩主・毛利輝元によって招致された朝鮮の陶工・李勺光、李敬の兄弟が城下で萩藩松本に御用窯を築き、李勺光が本流より分窯して築いた萩焼深川窯を代々受け継いできた由緒ある家柄である坂倉家の14代目として活躍しました。
茶の湯に合う温和の品のあるものに近代性を付加した作品を展開し、これまでの萩焼ではあまり見られなかったものを意欲的に取り組んだ事で知られています。
萩焼復興の祖ともいわれる12代・坂倉新兵衛を父に持つ14代・坂倉新兵衛は本名を治平といい、12代・坂倉新兵衛の三男として生まれました。
兄がいたため、県立萩商業学校を卒業してからは神戸市にある海産物問屋に就職します。
しかし体調を崩し退社する事になったため、実家に戻りますが体調が回復すると再び神戸市へ戻り、モロゾフ製菓株式会社に入社し、会社勤めをしながらも父親の作陶を手伝うようになり、陶芸の技術を磨いていきました。
そんな中、兄が戦死という形でこの世を去ってしまったため、家業を継ぐ事となり、13代・坂倉新兵衛の名は兄に追贈し、自身は14代・坂倉新兵衛を襲名しました。
14代・坂倉新兵衛を襲名してからは萩焼一筋となり、様々な美術展で受賞を重ねていきますが、陶芸家としてもまだまだこれからという時に胃がんに侵され、58歳という若さでこの世を去ってしまいました。