長野県出身の昭和~平成時代に活躍した日本の陶芸家です。
近藤悠三に師事し、金彩を研究していた近藤悠三に代わって時間の経過とともに剥げ落ちてしまった金彩を半永久的に剥がれない技法を使った作品を発表した事で知られています。
朝日陶芸展審査員長、日本伝統工芸新作展審査員、中国国際陶芸展審査員などを歴任しており、日本の陶芸界に大きく貢献しました。
高校生の時に今まで本当の父親だと思っていた人物が養父であった事実を知らされ、母親の不貞で生まれたという複雑な家庭環境の中育った篠田義一でしたが、養父・篠田鉄石との仲は悪くなる事はありませんでした。
篠田鉄石は山林業と少しの畑を耕して生計を立てていましたが、篆刻家という夢を諦めきれず山林業のすべてを自分の弟・篠田啓に任せ、松本で暮らすようになりました。
鉄石は篆刻をしながら、陶芸をやる弟のために松本に窯を築き、弟の作品に篆刻を施し、生計を立てていました。
一方、母親は看護師をしていた事から家を空ける事が多く、篠田義一は父親のもとで暮らすようになります。
そんな中、自分の出生の秘密を知り、特攻隊に志願しようと思った事もありましたが、戦争によって召集され将校の試験を受けて見事合格を果たしました。
しかし、終戦となり戦地へ赴くことはなかった篠田義一はふたたび鉄石のもとへと戻ります。
戦後、何を目標に生きていいのか分からなくなった篠田義一は木彫家の太田南海が材木を調達できず、鉄石の窯を借りて陶人形を焼いていた際に勧められ、見よう見まねで陶人形を制作した事で初めて陶芸に触れました。
その後、陶芸家・伊東陶山の展覧会を鉄石が手伝う事となり、伊東陶山の作品を見た事がきっかけで陶芸家になる事を決意します。
しかし、伊東陶山は年齢が離れていた事で弟子入りを断り、代わりに近藤悠三を紹介してくれましたが、京都までの旅費を工面する事ができず、断念せざるを得ませんでした。
こうして月日は流れ、たまたま引いたくじ引き(現在の宝くじのようなもの)で一等賞が当たるとその当選金で京都の伊東陶山の下へ行き、近藤悠三に直接合わせてもらおうと連絡をとり、近藤悠三の内弟子となって寝起きをともにしながら陶芸を学ぶようになりました。
日展に出品し、入選を果たしますが生活は貧しく、日展に入選した作品を搬入するための木箱も買えず、困っていた時に長野の小中学校で陶芸を教えに行った時に知り合った新村章雄が助け舟を出してくれました。
それは篠田義一の作品を転売し、そのお金を毎月送ってくれるという安定した収入を得られる仕組みでした。
こうして金銭面での精神的不安から解放された篠田義一は制作活動に身が入るようになり、次々と作品を発表し、陶芸以外にも茶の湯などの勉強も始め、裏千家で茶道も学ぶようになります。
近藤悠三の次女と結婚した事をきっかけに独立を果たしますが、転居した清水寺付近は文化財保護法によって登窯を開く事はできなくなってしまったため、自分の窯を持つ事ができず、松本と京都を行き来する制作活動が始まりました。
しばらくしてから松本に移住する事を決意し、父親、母親とともに暮らしながら制作活動を行うようになると家族を養うために売れる作品を目指して誰でも好む「藍色」の存在に気付き、作品には藍色を出来る限り使うようになっていきます。
こうして絵画的な要素を持った装飾性の高い作品を発表するようになると海外での活動も目立つようになり、金彩を研究していた近藤悠三に代わって時間の経過とともに剥げ落ちてしまった金彩を半永久的に剥がれないものを開発し、その名を残しました。