佐賀県出身の大正~昭和時代に活躍した日本の陶芸家です。
有田焼の名門として知られる酒井田柿右衛門は江戸時代から続く窯元の子孫が代々襲名する名称で、11代・柿右衛門の長男として生まれた12代・酒井田柿右衛門は本名を正次といいます。
初代~7代までの間に作られていた濁手という技法を使った、乳白色の素地に赤色系の上絵付を行う「柿右衛門様式」と呼ばれる磁器の作風を現代に復興させたとして知られています。
代々続く陶芸の名家に生まれた12代・酒井田柿右衛門は家業を継ぐために有田工業学校の前身である有田徒弟学校を卒業し、父親でもある11代・酒井田柿右衛門に陶芸技術と図案を学び、その一方で南画も5年間学んでいました。
7代、8代がよく使用していた「角福」のマークの商標登録の可否などを争う裁判を11代が起しており、それによって経済的に困窮していた酒井田家を継いだ12代・酒井田柿右衛門は、実業家・小畑秀吉と柿右衛門焼合資会社を設立し、赤絵技術と「角福」銘を供与する事になりました。
しかし、美術品の制作を志向する12代・酒井田柿右衛門と大量生産を志向する小畑秀吉と意見が対立し、関係を解消し、それぞれが「柿右衛門」の名で作品を制作するようになります。
この際、11代の時に商標登録された「角福」の銘を奪われたため、「柿右衛門作」という銘を使うようになりました。
ちなみに12代・酒井田柿右衛門が亡くなった後、数年後に和解され「角福」銘は返還されていますが、現在でも「角福」銘は使われていません。
その後、工芸品保存作家の指定を受けた12代・酒井田柿右衛門は長男・渋雄後の13代・酒井田柿右衛門)と共に7代の時に忘れ去られてしまった濁手の技法を復活させる事に尽力し、見事、濁手素地の復興に成功します。
その事が文化財保護委員会より記録作成等の措置を構ずべき無形文化財として選択を受け、地味な制作活動と熱心な研究により、近代柿右衛門復興の祖として絶大な功績を残し、歴代の柿右衛門の中でも名工としてその名が残されています。