豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮から薩摩に連れて来られた朝鮮人技術者で、薩摩焼を作り上げた陶工の子孫で沈家の12代目で、歴代の中でも天才と呼ばれる存在です。
幕末期の藩営焼物工場の工長を務めていましたが、明治になり新政府となると藩営焼物廃止法が施行され藩からの援助も無くなり、工場の存続が困難となるが、自らの資産をつぎ込み工場と薩摩焼の存続に尽力し、沈家のみならず薩摩焼業界中興の祖としても知られています。
技法も、陶工としてではなく陶芸家として透かし彫り、浮彫りを創造し、高く評価され宮内庁御用などもまかされるようになりました。
また、日本を代表してオーストリアのウィーン万博に「六フィート大花瓶一対」など多くの作品を発表し、海外に衝撃を与え、賞賛を得る事になりました。
これをきっかけに、アメリカ、ロシアを中心に海外貿易を開始、九谷焼とともに薩摩焼は日本陶器の代名詞となるまで押し上げます。
日本陶器の代名詞とまで言われた薩摩焼の総帥でありながら、海外の嗜好に決して調子を合わせず、日本人の美意識を貫き、最後まで自らを「平民」と称し続けた硬骨の人でした。