1831-1909年 東京生まれ
明治時代の印壇を代表する篆刻家。保守派の印人として知られ、日本における印章学の基礎を築いて『印学の父』とも称されています。
幼少期より叔父にあたる三世浜村蔵六について篆刻を学び、次いで益田遇所に師事して研鑽を重ねます。ふたりの師は共に、江戸時代の儒学者で国内の印章制度を確立して『印聖』とも称させた高芙蓉の教えを受け継いだ篆刻家で、江戸の篆刻界を代表する作家として広く知られた人物たちでした。
22歳で中井家の養子になった敬所は養子先の家業であった鋳金に従事しますが、明治維新以降、中国の篆刻について熱心に学んで修錬を積んだのち、中国篆刻家の作風の流れを大きく受けた作品の制作に取り組みます。のちに「菡萏(かんたん)居社」を設立し、岡本椿所、郡司楳所、増田立所、井口卓所、など多くの門人に篆刻の技術を伝授しました。
このほか、国の印章である国璽を刻して明治政府に献上したほか、宮内省に設置された宝物取調局査係や内国勧業博覧会審査官などの職を経て、75歳で篆刻家として初の帝室技芸員に任命されました。
篆刻とは
篆書(てんしょ)を刻すことから篆刻と呼び、具体的には、石・木・銅などの印材に刻すことを指します。篆書体とは中国を統一した秦の始皇帝が混乱した六国の文字を統一して小篆(しょうてん)と呼んで標準化し、この小篆とそこから派生した書体のことを指します。
馴染み深い篆書体の例として、日本紙幣にある「総裁之印」の捺印やパスポートの「日本国旅券」と記された印字が挙げられます。
ちなみに現在では、篆書だけでなく、隷書・楷書・行書・草書・かなの各書体を刻すことも全て「篆刻」と呼ぶ場合もあります。
また、本人確認や承認した文書であることの証明に使われる実用的な印鑑やハンコとの違いは、篆刻は書や絵におしてあるような印章のことを指し、作品の一部分を構成し、印章自体の筆意と美しさが鑑賞の対象になるという点です。
日本における篆刻の歴史
紀元前5000年ごろのメソポタミアを起源とした印は、ヨーロッパ、アジアを経て、諸説ある中、殷と呼ばれる時代に中国に伝来したと言われています。日本に篆刻が伝えられたのは、江戸時代中期で、主に文人間で使用されていました。書や絵をうまく書くことのできる文人が、自分自身で印を刻するようになったことから、流派としての特色ある印章が生まれたと共に、鎖国政策が終焉を迎え、中国との交流が盛んになると篆刻界の更なる芸術性が開花し、多くの篆刻家を輩出することに繋がりました。明治時代に活躍した中井敬所は保守派として知られていますが、同時代の革新派として北大路魯山人、小曾根乾堂、円山大迂などが広く知られ、多くの名品を遺しています。