1830-1926年
明治から大正時代にかけて活躍した刀匠。
明治維新後の文明開化の風潮下で刀剣の需要が先細りになった時代に、貧苦に耐えながらも伝統を守り技術を生かして、武器としての刀剣を美術品の分野に進出させたことでも知られています。
また、孝明・明治・大正・昭和天皇と実に、四代に渡る天皇の御剣を鍛刀したほか、備前伝・相州伝・山城伝・大和伝など幅広い作域で多くの名品を遺し、今日でもなお、多くの愛刀家を魅了しています。
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1830年 伯耆国(現在の鳥取県)の醸造家の次男として生まれた宮本包則(本名・志賀彦)は幼少期より刀剣に興味を持ち、近所の刀工を訪ねては刀についてさまざまな話を聞くことを好んだと言います。
22歳の時に刀工を志し、当時、質・量ともに鉄資源に恵まれたことで鍛冶が繁栄し「古刀の聖地」であった備前国長船(現在の岡山県瀬戸内市)に赴き、横山祐包(スケカネ)に師事して備前伝を取り入れた作刀を学びます。祐包の元で7年間の修練を積んだのち、師より「包」の字をもらい、包則と名乗るようになりました。
刀工として独り立ちした包則は、鳥取藩の家老荒尾家のお抱え工となります。その後京都に鍛冶場を設け、尊王攘夷を掲げて討幕を志す志士たちのための刀剣を作刀しました。
1866年には孝明天王の御剣を鍛造して能登守の受領名を与えられ、さらには有栖川宮熾仁親王および鳥取藩兵に従って戊辰戦争に従軍します。
しかし1876年の廃刀令後に日本刀の注文が激減し、廃業に追い込まれた包則は帰郷を余儀なくされ、農具や包丁の鍛造で糊口をしのぐなど苦しい生活を強いられます。
その窮地を救ったきっかけとなったのが、1886年の式年遷宮を迎えた伊勢神宮に奉納する神宝の大量注文を受けたことでした。包則は、すぐさま上京し、靖国神社の鍛冶場で宝刀や鉾などを鍛えます。この時の技能を明治天皇から高く評価された包則は、その後も1889年まで正倉院の宝剣模造を命ぜられました。
77歳になった宮本包則は、刀鍛冶技術の権威者として認められ、月山貞一とともに刀工として初めての帝室技芸員に任命されます。
その後も、明治天皇、大正天皇の大元師刀や、多くの皇族の護刀などを鍛えるなど、97歳で天寿を全うするまで精力的に作刀を続け、後世に残すべき数多くの名刀を遺しました。
刀剣需要と帝室技芸員制度
徳川氏の幕藩体制が崩壊し、明治政府が発足すると諸制度の変革ばかりではなく、社会秩序そのものが大きく変貌をとげます。
指導的階層であった武士は実質的に失業し、刀剣は武器としての役割が洋式鉄砲に取って代わるようになり、庶民の帯刀が禁止されると、次いで廃刀令が公布されました。
刀剣の需要がなくなれば、当然のことながら刀鍛冶は職を失います。石堂運寿是一、是秀は刃物鍛冶に転向、慶心斎直正に至っては廃刀令を悲観して自刃、月山貞一は、正宗など古名刀に偽銘を入れながらも作刀し、苦難の日々を過ごしています。
需要の急減に直面した刀工たちが、再び脚光を浴びるのは1894年に起きた日清戦争あたりだと言われています。軍刀という需要が生まれ、日本刀の近代刀期(日清・日露戦争から第二次世界大戦までの軍刀として意識された時代)と呼ばれる時代に入ります。
同時に、もう一つの流れとして美術・工芸分野の作家を対象とした帝室技芸員制度があります。
この制度は1890年に、明治維新後に窮迫にあえいでいた伝統的な日本美術や工芸家の保護奨励を目的としてはじまり、1944年までには13回の選定が行われ、延べ79名が認定されています。
この制度により、勅任官待遇、任期は終身、年金100円と制作費を受給するほか、博物館総長の諮問に応じることが義務づけられました。
刀剣の分野で選出された宮本包則の推薦理由として「刀鍛冶の長老として古伝を維持し、朝廷の御用にも多く従事して70を超えてもなお勤めに励み、この道において世間から仰ぎ見られる権威者である」との議事録が残っています。
需要が先細りになった時代に、貧苦に耐えながら伝統を守りぬき、需要が見込める『美術品としての刀剣』分野に進出した刀工の功績が、現代の刀鍛冶の技術に繋がっているといっても過言ではありません。