明治から大正時代にかけて活躍した南画家
1847―1917
画家・小蘋が生まれるまで
弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正という日本の黎明期の9世代を女流画家として生き抜いた野口小蘋、本名・親子(ちかこ)は1847年、漢方医の父・松村春岱(しゅんたい)と母・続子(つぎこ)の長女として大阪に生まれました。
還暦を迎えることが長寿とされた時代、春岱は47歳の時に生まれた親子をいたく可愛がったと伝えられています。漢方医であった関係で漢学に通じていたことから、親子に幼い頃から漢字を教え、次いで「三字経」や「四書五経」などの素読をさせ、顔真卿(唐代の書家)の楷書などを教えこみ、中国の南画の粉本を写させたりもしました。
したがって、幼い親子にとっては、父から学問を教わることがおもちゃで遊ぶことに匹敵したような環境でした。また、家へは文人墨客らが絶えず集まり、そこで親子は見覚えで四君子(東洋画で竹・梅・菊・蘭の総称)を描いたり、漢詩や和歌を披露したりと、幼いながら秀でた才能で客人を驚かせたこともあったといいます。
しばらくして還暦を迎えた春岱は、医者を辞め、妻と親子三人で旅に出ることを決意します。家財を整理し、家屋を売り、旅の資金に変えると一家は大阪から福井に向かいました。
父の友人で円山派の画家島田雪谷を訪ねて福井で半年ほど過ごした後、一家は次の旅を新潟に移そうとしますが、春岱は途中、名古屋で病に倒れ、休養治療の甲斐もなく客死してしまいます。
父を失った親子は凧絵や行燈絵を描いて売り、老いた母との二人の暮しを支えていかなければならなくなりました。しかし、苦しい生活の中でも絵に対する情熱は親子をかりたて、京都に向かい南画家の重鎮であった日根対山に師事します。 漂いの中でも根が生きる『うきくさ』の意を込めた「小蘋」の号を対山からもらい、さらに画業にうち込んでいきます。
画の修業の傍ら、小蘋は岡本黄石について漢詩を学び、また漢学を小林卓斎に教授を受け、自身の作品をより引き立たせようと励みました。
しかしながら、独特の京風の優雅な作風をもっていた日根対山は、小蘋の作品が世に認められるのを見届けることなくこの世を去ります。さらに翌年母を失って天涯孤独になった小蘋は、23歳ひとり上京を決意します。
女流南画家としての歩み
小蘋は、出入りで親しくなった骨董屋の紹介で知り合った野口正章と31歳で結婚します。野口家は滋賀県蒲生郡の資産家であり、大きな酒造家でした。また、野口家は明治維新の10傑のひとりといわれた岩倉具視の遠縁にあたり、その斡旋をうけて小蘋は華族女学校嘱託教授に任じられます。
日本美術協会絵画展覧会に出品した「秋草図」は一等金牌を受賞して、皇后宮職御用品として買上げられたのをはじめ、皇室の御用達の作品を多く手掛け、しだいに関東南画を代表する画家と評されるようになりました。
また、女性初の帝室技芸員に選出されたほか、活躍は国内のみならず、米国コロンブス博覧会やパリ万国博覧会において、いずれも受賞を重ね、海外においても高い評価を受けました。さらには文展審査員や日本美術協会顧問を歴任し、南画の復興に多いに貢献します。
晩年の傑作といわれる「悠紀屏風」を完成後まもなく病床に臥した小蘋は、その2年後に享年70歳でこの世を去りました。
人生観の片鱗
明治初期の激動期に活躍した女流南画家で、小蘋にならんで『双璧』と称される奥原晴湖が剛直な筆法で名声を博したのに対し、野口小蘋はあくまで京都風な優雅さで、師の対山の画風を最後まで守りとおした女性らしい画業をのこしました。
小蘋の長女・小蕙(しょうけい)による記録『私の母 野口小蘋」に、母として小蘋が常に語っていたという言葉が残されています。
「一度志を立てたものは、いかなるきびしい試練であっても受けて立ち、耐え遂げねばならない自覚をもてよ」
幕末から近代への移行期に父母の愛に包まれて成長した挙句に旅先で父を亡くし、苦しい生活を強いられながらも、南画にたいする繊細な感性と苦節に耐える強靭な精神力とで珠玉の作品を目指し続けた芸術家。
小蘋は、この言葉をひたすら自らの課題として胸に刻み、生涯を通してその画業を支え遂げさせたのかも知れません。