1829-1913
江戸時代後期から大正時代にかけて活躍した京都出身の日本画家
山水や人物画、花鳥図を得意とし、四条派の画技を忠実に継承しつつ豊かな色彩感覚で表現した数々の名作をのこしています。幕末明治には広島藩士として国事に従事し、維新後は積極的に海外にも画家としての活躍の場を展開させ、伝統的な日本画を世界に紹介する功績も知られています。
画家になるまで
熊谷直彦は、1829年に賀茂神社の神職である父・山本季金のもと 京都に生まれました。
1841年、当時活躍していた四条派の画家・岡本豊彦の一番弟子であった、岡本茂彦に入門しますが、師の死後は独学で日本画の技術を学びます。1844年に広島藩の熊谷左門の養子となり、名を熊谷直彦と改めます。幕末には広島藩士として国事に奔走し、尊王攘夷の活動に参加して広島藩の執政であった関忠親の側近となり、野村帯刀(のむら たてわき)の勤王運動に従って上京した後、京都留守居役に任命されています。明治維新の版籍奉還後は一時期、広島藩の大属として官職を務めますが、のちに再び上京し、積極的に絵画の道に邁進して画家としての活動に専念しました。
画家としての業績
1884年第2回内国絵画共進会において『大江山』ならびに『鯛』を出品して銅賞を受賞します。さらには、明治宮殿造営に際し、東宮御所の杉戸絵を手掛けています。
活躍の場は国内のみならず、1893年にはシカゴ万国博覧会、1900年にパリ万国博覧会にて『雨中山水』を出品していずれにおいても高い評価を得ています。
その後も伝統絵画を保存しようという方針のもとに佐野常民、河瀬秀治、九鬼隆一らで結成された「龍池会」を前身とする美術団体「日本美術協会」において積極的に制作を続け、1903年に同会秋季展にて特別賞を授与するなど数多くの賞に輝きました。
こうした度重なる受賞歴と功績が認められ、1904年には帝室技芸員に任命されています。
熊谷直彦の画風
熊谷直彦は、広島藩士で京詰衣紋方であった養父の影響により、有職故実や公家の儀式などでの正装のことを指す衣冠束帯に通じていました。
また自ら諸国の古寺や名称を訪れては故実を研究し、見聞を広めていきました。
熊谷は、そのような経験を活かし、緻密で正確な写実力で花鳥風月の一瞬を捉え、豊かな色彩で作品を表現しています。
現実的な写実性と叙情性を兼ね備えた画家の感性で描かれた作品群は、国内のみならず、西洋画とは違った着彩技法が海外においても高く賞賛され、人気を博しました。