1825-1903年
幕末から明治にかけて活躍した蒔絵師
江戸を代表する漆工家である柴田是真の一番弟子と言われ、伝統的な技法を継承しながらも独自の江戸風な洒落感を加えた美技で、多くの気品あふれる作品を世に送り出しました。
池田泰真の経歴
江戸赤坂に、三河国(現在の愛知県)西尾藩士・池田新五郎の第5子として生まれた泰真は、幼名を七五郎、のちに久三郎と改め、作銘は泉哉、後に泰真と号しました。
幼いころから絵を描くことを好み、11歳の時に柴田是真に入門します。以来20数年間、終生忠実な弟子として常に師匠の是真を助け、漆技の改良工夫や変塗(かわりぬり)など、新しい技法の発明に努めました。
安政6年、浅草榊町に一家を構えて独立し、袋物商丸利の注文を受けて印籠やキセル筒などを制作して漆工蒔絵に従事します。その後、ウィーン万国博覧会にて出品受賞したのを皮切りに、国内外の博覧会や展覧会に精力的に作品を出品して受賞を重ねます。
蒔絵師として作品制作に打ち込むだけにとどまらず、明治23年に発足した日本漆工会設立に際して尽力し、さらには内国勧業博覧会や日本美術会美術展覧会において審査員を務めるなど幅広く活躍します。師の是真が同24年に亡くなった後は、明治漆工界を牽引する第一人者として重要な役割を果たしていくことになります。
宮内省御用品の製作にも多く携わり、明治29年には現在の人間国宝にあたる帝室技芸員に川之辺一朝とともに選任されています。蒔絵の分野で帝室技芸員選任の名誉を受けたのは、他、師の柴田是真、白山松哉の4人限りで、いずれも万国博覧会での活躍が賞賛され、日本を代表する名工として注目されました。
後進の育成にも励み 多くの門下生を養成した泰真は、住んでいた場所からその流派を「薬研堀派」(現在の東京都中央区東日本橋辺り)と称され、池田(紫村)慶真、柴田真哉、梅澤隆真、市川泰山、福島泰哉、都築幸哉など優秀な蒔絵師を輩出、新しい時代に適応した漆芸を生み出して、今日に至る漆芸界発展の架け橋を築き上げました。
漆工家・池田泰真という作家について
師の是真が蒔絵師と絵師の二つの顔を持っていたのに対し、泰真は画で立身する困難さを悟り、最終的には蒔絵のみに専念します。
仕事に対する姿勢はきわめて真面目で、晩年に至ってもなお、毎日のように朝早くから夜遅くまで蒔絵に従事していました。
画家として出世することの困難さを早くに悟った泰真でしたが、意匠の下絵から蒔絵の加飾に至るまで、ひとの手を借りずに全て自ら行っていたと伝えられています。
物事にたいして大らかで、弟子たちには自由に金粉を扱わせ、また預けるなどしていたことからも、その穏やかな人柄を知ることができます。
泰真と親しい付き合いのあった近代画の巨匠・鏑木清方は『こしかたの記』と題した自らのエッセイ集で泰真について触れ、「温厚で物静かな佇まいからも名匠と呼ぶにふさわしい風格をもった人物」「職人の分野を問わず、その道を極め、至り尽くした人のみにみられる豊かさを考えた時に、まずこの人の顔が思い浮かぶ」と記しています。
泰真の類い稀な才能と技術は、後代の追随を許さずに今に至りますが、その人となりもまた、名匠の品格を備えた人物であったことを今に伝えています。