秋田県出身の明治~大正時代に活躍した日本画家です。
放浪の画家と呼ばれ、各地を旅してまわった寺崎広業は美人画で名を上げ、東京国立博物館に所蔵されている『秋苑』は寺崎広業の美人画の代表作で、女性の着衣、背景、家具、その全てが細部にまでこだわって描かれており、その作風は江戸時代に活躍した谷文晃を彷彿させます。
また、夏目漱石には「売れっ子は東の広業、西の栖鳳」と言われ、実力ある画家であった事が分かります。
秋田藩家老職にあった寺崎家に生まれた寺崎広業は、戸籍上は広業を「ひろなり」としていますが、周囲は「こうぎょう」と呼ぶ事が多く、そのまま通号としました。
また、別に宗山、天籟山人などとも号しています。
寺崎広業の母親は寺崎広業を妊娠中に離縁されており、寺崎広業が生まれてからは厳格な祖母の手で育てられました。
そんな寺崎広業は幼い頃から画才を発揮しており、祖母もその才能に理解を示していました。
その後、父親が始めた初等学校を経て太平学校変則中学科に入学しましたが、父親の学校経営、更に料理屋の経営に失敗したため、家は経済的に困窮し、退学する事になりました。
将来性を心配した乳母が夫に頼み、成人まで寺崎広業の面倒を見るという事で、引き取る事になりました。
こうして寺崎広業は医者を目指して秋田医学校に入学しましたが、医学書は高く、家業も手伝わなければならない状況下で学業を続ける事ができず、最終的に退学してしまいます。
その後、もともと絵が好きだった寺崎広業は、地元の狩野派の画家・小室怡々斎に入門し、「秀斎」の号を授かりました。
こうして、いつまでも乳母の家にお世話になるわけにもいかないと、一本の筆を頼りに遊歴の画家として19歳で生計を立てようと考えます。
しかし、無名の青年画家が画業だけで生計を立てる事は難しく、旅の途中で寺崎家とは縁戚関係にある鹿角郡長・戸村義得に出会い、戸村義得の紹介で郡役所の庶務受付け係として採用され、生活の立て直しをします。
そんな中、寺崎広業が小室怡々斎に入門して間もない頃に描いた作品を見た平福穂庵に促され上京し、平福穂庵の門下として学びます。
しかし、平福穂庵と性格が合わず、4ヶ月で放浪の旅に出てしまいます。
日光の大野屋旅館に落ち着いた寺崎広業は、旅館の手伝いをしながら揮毫の依頼に応じ、たまたま描いた美人画が人気を博し、依頼者が増え再び上京する事になります。
上京した寺崎広業を待っていた平福穂庵は、出版業を営む東陽堂を紹介し、東陽堂が発行していた「絵画叢誌」で中国、日本の各派古名画を復元掲載する雑誌で原画を丁寧に模写し、それをまた石版画の原版に縮小するという根気のいる作業を3年間続けました。
また、「風俗画報」という雑誌にも関わりを持ち美人画の手法を学び、ここで寺崎広業の画風の基礎が築かれ、今後の作風に大きな影響を与えました。
こうして安定した生活を送れるようになった寺崎広業は、一方で創作活動にも力を注いでいきます。
内国勧業博覧会に出品すると無名画家でありながら入選して褒状を受けており、一躍その名が知られるようになります。
結婚して新居を構えた寺崎広業ですが、仲間と写生に出かけている間、自宅がもらい火で全焼してしまい、自宅にあった粉本やデッサンなど全てが焼失してしまいました。
しかし、寺崎広業は意気消沈することなく「これからいよいよ広業の絵を描くことにしよう」と前向きだったと言われています。
その後、東京美術学校の助教授に抜擢され後進の指導にあたっていましたが、当時校長をつとめていた岡倉天心を学校から排斥しようとする運動が高まり、寺崎広業は天心派であった事から東京美術学校を去る事にしました。
この時、他にも東京美術学校を去った人物たちで日本美術院をおこし、寺崎広業もこれに参加しています。
再び東京美術学校の教授として迎えられた寺崎広業は戦時中には従軍画家として参加し、その経験を生かして木版画で戦争画、美人画、花鳥画を多く残しました。
その後は東京美術学校日本画科の主任をつとめ、帝室技芸員となり、日本の美術界の中心的存在となりましたが、病魔に蝕まれ、画家としてこれからの活躍が期待されていた中、この世を去ってしまいました。