幕末明治期の日本画家。
長州(萩)藩士石田伝内道政の三男として生まれる。
本姓石田、幼名は幸吉のち尚太郎。
字は子容。雅号は桃蹊、寛斎、晩山、造化室、天開図画楼。
初め萩藩絵師太田田竜について学んだ。
1831年大坂に出て森徹山に入門、円山派の絵を学び、のち徹山の養子となる。
1855年御所造営に参加し揮毫するが、幕末は国事に奔走、密使としてたびたび長州、京都を往復する。
勤皇の志士と交わり、品川弥二郎とは以後長く親交があったという。
明治維新後、京都で如雲社に参加、塩川文麟没後、同社および京都画壇の中心的存在となった。
各種博覧会で高賞を受賞し、1880年京都府画学校出仕、1886年京都青年絵画研究会会長、1890年帝室技芸員となる。