明治時代に活躍した彫刻家で、「たけうちきゅういち」もしくは「たけうちひさかず」と呼称されています。
竹内久一は生粋の江戸っ子として知られており、浅草の「田長(田蝶)」という提灯屋の老舗で生まれ、幼名を兼五郎、号は久遠といいました。
画才のあった父は竹内久一が13歳の時に根付師・堀内龍仙に弟子入りを勧め、この事がきっかけで彫刻に触れる事となります。
堀内龍仙が亡くなると、川本洲楽のもとで象牙彫刻を学び、内国勧業博覧会では象牙作品を出品し、褒状を貰っています。
そんな竹内久一が木彫刻へと転向するきっかけとなったのが、観古美術会に出品された奈良興福寺の古像に感銘を受けた事でした。
こうして翌年には奈良へ遊学し、正倉院御物をはじめ、様々な寺社にある古彫刻を摸刻し、研究を重ね、この頃、奈良を訪問していたフェノロサ、狩野友信、加納鉄哉、岡倉天心と知り合い彫刻家として大きな一歩を踏み出しました。
東京美術学校が開校すると彫刻科の教師として活躍し、その3年後には彫刻科の初代教授に任命され、古彫刻の摸刻と修復に携わり、白井雨山、沼田一雅などを育て上げます。
また、帝室技芸員にも選ばれており、文展が開設されると審査員を歴任しています。
伝統的な主題を古典的な様式と近代的写実のあいまった作風で知られる竹内久一は、師子王文庫に献納の日蓮聖人御聖容をはじめ博多の日蓮聖人の銅像、田辺の池の御立像を彫刻した事でも知られています。