明治~大正時代に活躍した日本の文人画家、儒学者で、漢詩や南画も得意としていました。
田能村直入・谷口藹山らと日本南画協会を発足し、学者としての姿勢を貫きながら自由な作画活動を行っており、その学識と画技により帝室技芸員、帝国美術院会員に選ばれ、文人画壇の重鎮として活躍を見せました。
自ら「書画叢談」と称しており、小品も含めると2万点以上も残したと言われています。
京都法衣商十一屋伝兵衛富岡維叙の次男として生まれた富岡鉄斎は耳が少し不自由でしたが、勉学に励み富岡家の家学である石門心学を学ぶと15歳の頃から大国隆正に国学や勤王思想を、岩垣月洲らに漢学、陽明学、詩文などを学びました。
18歳の時に難聴を理由に家業を継ぐ事ができないと判断された富岡鉄斎は、女流歌人として知られる聖護院の大田垣蓮月に預けられ、国学や儒学、漢詩などを学びました。
この頃から画に興味を持つようになり、南北合派の窪田雪鷹、大角南耕に絵の手ほどきを受け、南画を小田海僊に、大和絵を浮田一蕙に学びました。
こうして様々な人物から色々と教わった富岡鉄斎は山中静逸と出会い、画業で生計を立て始めるようになり、私塾を開設しました。
その一方で頼三樹三郎、板倉槐堂、藤本鉄石、山中信天翁らと親しくなり、幕末の動乱の中で勤皇思想に傾倒し、国事に奔走するようになります。
明治維新後は歴史、地誌、風俗を訪ねて各地を旅行したり、奈良石上神宮、和泉の大鳥神社の宮司をつとめ、 大和国の式内社加夜奈留美命神社を復興させました。
そんな富岡鉄斎は教育者としても活躍を見せ、西園寺公望が京都御所内の私邸に開設した私塾立命館で教員をつとめ、後に京都市美術学校でも教員として後進の指導にあたりました。
富岡鉄斎は特別誰かに師事する事はなく、ほとんどが独学で画技を習得し、年齢を重ねるごとに評価が高まっていきました。
晩年に多くの作品を残した富岡鉄斎ですが、展覧会や博覧会の審査員は多くつとめる一方で出品する事は少なく、これは富岡鉄斎自身が画家ではなく学者が本職であると自認していた事が大きく関係しています。