和歌山県出身の明治時代後期~昭和時代初期に活躍した日本画家です。
菱田春草とともに日本画の革新を目指して近代日本画に大きな影響を与えた人物として知られ、狩野派の基礎に研究を重ねた大和絵の流麗な描線と色彩で気品のある作品を制作した事で知られています。
紀州徳川の能楽師・下村豊次郎の三男として生まれた下村観山は8歳の時に一家で上京します。
幼い頃から絵の才能があった下村観山は、はじめは狩野芳崖に師事し、北心斎東秀の号を授かります。
次に狩野芳崖の勧めで橋本雅邦に師事すると鑑画会に『雪景山水図』を出品した事でアーネスト・フェロノサに認められ、東京美術学校の第一期生として入学しました。
類まれなる描写力で同級生の中でも群を抜いていた下村観山は当時、東京美術学校の校長をしていた岡倉天心に期待されていました。
卒業後は横山大観、菱田春草、本多天城、西郷孤月らと共に帝国博物館古画模写事業に従事し、この頃から観山の号を使用するようになり、東京美術学校の助教授として後進の指導を行うようになりました。
しかし、岡倉天心が東京美術学校から排斥を受けると、下村観山も辞職し、日本美術院創設に参加します。
再び東京美術学校に教授として復帰する事になった下村観山は、文部省留学生としてイタリアへ渡り、大英博物館などでルネサンスの巨匠とされる著名な画家たちの西洋画の研究や模写を行いました。
こうして帰国した下村観山の作品は西洋画と日本画の表現を組み合わせたエキゾチックなものへと変化し、優美な色彩と線描の巧みさに更に磨きをかけていきます。
文展が開催されるようになると審査員に任命され、作品は政府買い上げとなりましたが、岡倉天心が亡くなると文展を退会し、横山大観らとともに日本美術院の再興に尽力し、更なる発展に貢献しました。