京都府出身の大正~昭和時代に活躍した日本の洋画家です。
セザンヌの本質を理解し、その影響による作品を描いた最初の日本人画家ともいわれ、人物画においては「安井様式」ともいえる独自のリアリズムを確立し、多くの画家たちに影響を与えました。
当時、梅原龍三郎と洋画界を二分しており「梅原・安井時代」とも称され、生前から高く評価された画家の一人に挙げる事ができます。
また、戦後の「文藝春秋」の表紙絵を担当していました。
京都で木綿問屋を営む商家の五男として生まれた安井曾太郎は商人の息子として京都市立商業学校入学しますが、画家となる夢を諦めきれず、反対する両親を説得し、京都市立商業学校を中退して聖護院洋画研究所に入所しました。
聖護院洋画研究所では浅井忠、鹿子木孟郎らに師事して絵を学んでおり、同時期に梅原龍三郎も聖護院洋画研究所で学んでいました。
先輩画家の津田青楓が渡欧すると聞くとともに渡欧する事を決意し、渡欧する前に安井曾太郎はこれまで制作してきた作品を全て焼き捨てます。
そのため安井曾太郎の初期の頃の作品はほとんど現存していません。
フランスではアカデミー・ジュリアンでジャン=ポール・ローランスに学び、セザンヌ回顧展でセザンヌの作品を見て驚き、その画法の研究に没頭するようになります。
また、滞在中にイギリス、イタリア、スペインなどへも旅行をしており、風景画を描き残しています。
第一次世界大戦が勃発すると安井曾太郎たち日本人はヨーロッパでの居場所を失くし、また健康状態も優れなかった事から帰国する事になりました。
帰国後は二科展に滞欧作44点を出品し、二科会会員となりますがスランプに陥り、まったくといっていいほど作品制作を行う事ができませんでした。
10年かけて独自の日本的油彩画の様式が確立した安井曾太郎は、次々と作品を発表していき、帝国美術院会員に選ばれた事でもともと文展に対抗して組織された二科会を離れなければなりませんでした。
こうして同じく帝国美術院会員として選ばれた石井柏亭、有島生馬、山下新太郎らと一水会を結成し、以後、同会の委員をつとめ、日本の美術界に大きな影響を与え続けました。