江戸出身の明治~大正時代に活躍した日本の木彫刻家、仏師です。
明治維新という激動の時代に木彫刻家としての信念を貫き通した高村光雲は、西洋彫刻の超写実的表現を取り入れ、圧倒的な作風で伝統ある木彫刻に新境地を開いた事で知られています。
仏像の他にも動物をモチーフにした作品を多く手掛けており、代表作の一つで国宝(重要文化財)となっている『老猿』は、高村光雲の最高傑作として現在でも高い評価を受けています。
『老猿』の制作にとりかかろうとした時、長女の咲子を16歳で亡くし、何も手につかないほど落胆しましたが、制作を通じて気力を取戻します。
『老猿』の迫力は娘を失った高村光雲の悲しみと、それを克服しようとする気迫が一刀一刀に込められて生み出されました。
ちなみにこの『老猿』はシカゴ万国博覧会に出品し、国際的にも高い評価を受けています。
高村光雲の本名は中村光蔵といい、祖先は鳥取藩士・中島重左衛門とされています。
11歳の頃に仏師の高村東雲に入門し、その後、高村東雲の姉の養子となり高村姓を名乗るようになりました。
こうして高村東雲の仏像彫刻の補佐や代役をつとめるかたわら、独自の彫技を生み出していきました。
しかし、明治維新後は廃仏毀釈運動の影響で、仏師としての仕事はなく、輸出用の象牙彫刻が流行したために木彫も衰え、高村光雲の生活も苦しいものでした。
それでも木彫に専念し、積極的に西洋美術を学び、衰退しかけていた木彫に写実主義を取り入れることで復活させ、第一回国内勧業博覧会に出品すると龍紋賞を受賞し、江戸時代までの木彫技術の伝統を近代につなげる重要な一歩を踏み出しました。
そんな高村光雲の力量を知った岡倉天心は、東京美術学校の開校の際、高村光雲を講師に迎え、やがて教授として彫刻科で指導にあたるようになりました。
教え子には山崎朝雲、山本瑞雲、米原雲海、関野聖雲などがおり、彼らは後に近代日本彫刻を代表する彫刻家として活躍を見せます。
また、彫刻家・詩人として活躍した高村光太郎、鋳金家・高村豊周は息子で、それぞれ日本の芸術界で活躍を見せています。