播磨国出身の明治時代に活躍した日本の陶芸家です。
初代、2代が培ってきた伝統京焼の技法を研鑽し、新しい釉薬の研究にも励んで今までの作域にはなかった青磁、白磁の透かし彫りや「釉下彩」の技法を用いた近代陶芸を展開し、優雅で繊細なフォルムと色彩美を表現した作品で知られています。
42歳の若さで陶磁器分野で初の帝室技芸員に選出され、名実ともに明治時代に日本を代表する陶芸家として活躍しました。
現在の姫路市大塩町の醤油醸造を営み画家でもあった岡田良平の次男として生まれた3代・清風与平は、本名を岡田平橘(おかだへいきち)といい、幼い頃から画家を志して大阪の文人画家・田能村直入に師事し、日本画、南画を学んでいました。
しかし、病気を患い画家になる事を断念し、16歳の時に京都清水の清風家の養子となり、2代・清風与平の弟子として陶芸を始めます。
独立してからは新開家を創設し、新開清山と号して活動を行うようになりますが、2代の妹と結婚し、義兄である2代・清風与平が亡くなると婿養子となった事もあり3代・清風与平を襲名しました。
初期の作品は当時の京の陶芸がそうであったように、中国の宋、明の古陶磁器の写しを制作していましたが、明治維新後の急速な社会情勢の変化によって国内向けの伝統技法や生産方式では対応するのが難しくなってきた事に気づき、画家を志していた頃を思い出し、画才を発揮するようになります。
京都郊外の山林を歩きまわり、草花をスケッチしたり、原料である土や石を探し出し、素地土としたり、釉の原料としても利用するなど工夫を加え、日本的な意匠に基づく独自の作風を築き上げていきました。
この事から帝室技芸員に任命され、パリ万国博覧会、内国勧業博覧会などで出品し、数々の受賞を受けるなど、日本を代表する陶芸家として活躍を示し、世界各地でその作品が収蔵されています。