KPM Berlin ベルリン王立磁器製陶所のお品を買取ります
プロシア王国のフリードリヒ大王(フリードリヒ2世)によって創立され、18世紀ドイツの主要7窯の一つとして知られ、ドイツ語で「Königliche Porzellan-Manufaktur Berlin GmbH」と書き、その頭文字を取ってKPMと呼ばれています。
そのため、製品には選帝侯ブランデンブルクの紋章からきているコバルトブルーの王の笏がすべての製品に付けられており、更にすべての装飾されたKPMの磁器は、絵職人のマークと絵付けマークが描かれています。
創業当初から現在まですべてが職人による手作業で制作されており、クオリティーの高い製品を生み出しています。
KPMがフリードリヒ大王による王立製陶所となる前は民間企業として1751年に創立しており、その創立者はウィルヘルム・カスパー・ウェゲリーというベルリンの毛織物工場主でした。
ヴィルヘルムはフリードリヒ大王からベルリンで王立磁器製陶所を建てる特権を得て、必要な原料への無税の特権と競争相手の排除をフリードリヒ大王に約束させ、その交換条件として窯の情報を漏えいさせないという決まり事を承諾しました。
しかし、産業スパイによって情報は外部に流出してしまい、倒産となってしまいました。
その後、ベルリンの商人ヨハン・エルンスト・ゴッツコフスキーに道具、資材、材料を譲渡し、ゴッツコフスキーは様々な技術者をスカウトして窯を大きくしていきましたが、7年戦争により、取引相手の財政が厳しくなり、それに伴って窯も再び倒産してしまいました。
こうして、1763年に救済措置としてフリードリヒ大王が工場を買取り、146名の陶工の雇用を保障し、王の杓上のマークを使用する事が許され、KPMが誕生しました。
フリードリヒ大王は道徳の面でも国民の手本となる事を基本に考えていたため、「児童労働者の禁止」「平均以上の給与」「安定した年金制度」「孤児や未亡人の支援」「医療基金制度」などを工房経営に取り入れた事で、他の経営者のモデルとなりました。
また、フリードリヒ大王は磁器と国政を別々に考える必要が無くなったため、外交の贈り物をすぐに用意することができ、自由にオーダーすることができたため、KPMにとっても顧客として重要な人物でもありました。
フリードリヒ大王はこの世を去るまでの間に450ピース21セットのディナーサービスを発注したという記録も残されています。
その後、フリードリヒ大王はマイセンやヘキストの技術者を集めるなどし、技術を高めていき、ビスク焼きの作品や陶板画など高品質の作品を手掛けるようになっていましたが、第二次世界大戦の空爆によって工場は壊滅状態となり、ゼルプの工場のみでの生産となってしまいました。
戦後は占領区域の違いからベルリン工場とゼルプ工場は別組織として操業していましたが、1957年に合併され、現在はベルリンで生産が行われ、その優れた造形技術、装飾技法はヨーロッパの最高水準と評価されています。
また、アールヌーボーにアールデコ、そしてバウハウスと新しいものへの探究心によって150,000型以上のレパートリーを作り上げました。