明治~昭和の戦争の時代にアメリカと日本のハーフに生まれ苦しんだ、天才彫刻家イサム・ノグチによる照明器具です。
彫刻の可能性を広げた『光の彫刻』としての表現であり、伝統的な岐阜提灯の新たな形は『あかり (Akari)』シリーズと名付けられ、現在も販売されています。
機能的で美しい形態、和紙が照らす優しい灯は家庭でも楽しめるアートです。
ノグチ・イサムの父である野口米次郎はアメリカでも評価されている詩人で、恋多き男でもあります。
アメリカ滞在中にゲイの作家やレオニー・ギルモアと交際しましたが破局し、別のアメリカ人女性にプロポーズ後に帰国を余儀なくされ、その新しい女性の来日を心待ちにしていました。
しかしレオニー・ギルモアの妊娠が発覚し男の子を出産、それを知った新しい女性に見捨てられた野口米次郎はレオニー・ギルモアと息子に日本に来るように勧めます。
レオニー・ギルモアは初めは拒否しますが、日露戦争によりアメリカでの反日感情が高まり、白人と有色人種の結婚が禁止になり身の危険を感じたことから、日本に行くことを決意しました。
息子が2歳の時に日本で初めて父子対面を果たし、その時に『イサム(勇)』の名が与えられたそうです。
3人での生活が始まりますが、野口米次郎はすでに別の日本人女性と結婚していたということで、2年後には公に別居しています。
イサム・ノグチは日本の小学校に通ったところ異人の子としていじめられ、インターナショナルスクールに転入しますが、ここでもいじめられました。
不登校になったイサム・ノグチは、母親の提案で自邸の建築への参加や指物師(家具職人)に弟子入りなどを経験し、この時に物づくりの非凡な才能を見せます。
何とかインターの小学校を6月に卒業すると、すぐに一人で渡米しアメリカの中学に通うように母親から告げられます。
日本の学校を忌み嫌っていたイサム・ノグチを案じて、また第一次世界大戦に徴兵されることを恐れてのことですが、本人は母親に見捨てられたように感じたようです。
旅客機などない時代であったので、横浜港から出港しアメリカでは汽車を乗り継ぎ3週間後、やっと学校に到着すると学校の創立者で富豪のラムリーは反逆罪の濡れ衣で逮捕されていて閉校が決まっていました。
第一次世界大戦の最中であったことから生徒がいなくなった学校は兵の訓練施設となり、行き場がなかったイサム・ノグチはそこに留まり、兵により持ち込まれ当時流行していたスペイン風邪にかかったこともあります。
木の実などの食べ物を求めてうろつくような生活が続いた後、支援者が現れて中学に通えるようになったのは12月、イサム・ノグチはそこでも「ジャップ」と呼ばれいじめられてしまいました。
中学を卒業した頃、釈放されたばかりのラムリーが日本からやってきたイサム・ノグチの身を案じて訪ねてきます。
ラムリーの支援により高校に通えるようになり、文通を通して父親のような存在になりました。
母親はこの頃すでにアメリカに移住していましたが息子には知らせず音信不通を貫き、医師でもあったラムリーの助けを受けてイサム・ノグチが医大に進学すると、突然現れて芸術家のほうが向いているとラムリーに猛抗議します。
あまりの母親の身勝手さに反感を抱く一方で医学の授業が面白くないのも事実でした。
父親の旧友でアメリカ滞在中であった野口英雄にも芸術家になるように説得され、レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の彫刻夜間クラスを受講し、すぐに高い評価を受け医学部は中退し彫刻に専念することとなります。
インターに通っていた頃から『ギルモア』姓でアメリカでは『サム・ギルモア』、ここからは彫刻家として『イサム・ノグチ』を名乗る決心をしました。
レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校とは方向性の違いで喧嘩別れに終わり、1927年22歳の時に奨学金を得てパリに留学し、フランス語しか話せないルーマニア生まれの彫刻家コンスタンティン・ブランクーシの助手を、言葉の壁があるにも関わらず7ヶ月間努めます。
帰国後は有名人のクライアントに向けて肖像画から胸像を制作することで資金調達に成功しました。
1930年は再びパリを訪問し、パリ経由で日本に向かうつもりだったのですが、父・野口米次郎のノグチの名前で日本に来てほしくないという意向を知り、動揺して代わりに中国に向かいます。
中国では斉白石に水墨画を習いヌードの水墨画などを制作、資金が底を尽きかけた6ヶ月後に日本に到着し、父親とも再開を果たしました。
父親がノグチの名前で来て欲しくなかった理由は、妻が反対したからとのことです。
大恐慌の最中にニューヨークに戻り、以前のようにクライアントは見つからず、第二次世界大戦勃発により自分が血を引く両国が戦争することとなり、自ら出向いて日系人強制収容所に拘留されます。
イサム・ノグチは収容所内に公園やレクリエーションエリアを設計するつもりでしたが却下され煙たがられ、日本人側からもスパイ扱いを受けるなどどこにも属せない苦悩を味わいます。
芸術家仲間の嘆願書により出所しニューヨークに戻りアトリエを構え、終戦の翌年1946年の展示会は彼のアーティストとしての地位を確固たるものにしました。
また彫刻としてあらゆる物質の造形を試みた他、庭園や公園、建築、舞台などの空間デザインも手掛けています。
イサム・ノグチは戦争により破壊された人々の精神を取り戻すのは芸術であると考え、改めて彫刻の勉強をするために世界中の文化遺跡を訪問し、最後に日本を訪れました。
ニューヨークの気鋭の芸術家として注目される中、当時の日本の芸術について聞かれ「日本の伝統はどうなった!ピカソの真似ばかりじゃないか!」「それなら、僕がやってみせよう」と言い放ったそうです。
人気女優の山口淑子と結婚し、北大路魯山人の地所の一角にアトリエ兼住居を構え、『陶器の彫刻』に没頭しその独創的な作品で多くの芸術家を魅了しました。
そして岐阜市長からお盆の仏壇飾り『岐阜提灯』を世界に広めたいのでデザインを考えて欲しい、と依頼を受け、イサム・ノグチも以前から構想を練っていた、周りの空間を明るく照らすような彫刻『光の彫刻』が実現できるのでは、と考え何度も岐阜を訪問し1951年に15個の試作品が完成します。
それまでの岐阜提灯のような色鮮やかな模様はなく、生成りの和紙そのものの美しさが際立ちユニークな形をしていました。
小さく折りたたんで持ち運びができることから扱いやすく、生活に安らぎを与える芸術であると国内外で評判を呼び、日本の伝統が世界で販売された成功例となっています。
AKARI(あかり)と名付けられ、35年かけて約200種類にもなり現在も販売中です。
イサム・ノグチは日本とアメリカ両国でいじめを受けて育ちましたが、ラムリーや支援者などの人格者から影響を受けた関係か、誠実で成人後はとても人から好かれたそうです。
自分のルーツである2つの国の良い所と悪い所を深く知ったからこそ、アメリカと日本の伝統と現代を芸術として統合し新しい世界を切り開けたのかもしれません。
晩年はニューヨークの他に日本の香川県にもアトリアを構え、メキシコやイタリアなど世界中で様々な事業に関わりました。
1987年にアメリカの国民芸術勲章、翌年に日本の勲三等瑞宝章を受け、同年12月にニューヨークで亡くなります。
その後も事業は継続し、最も新しい作品は2005年、公園全体を一つの彫刻に見立てた自身最大の作品である北海道のモエレ沼公園が完成しました。
現在もイサム・ノグチの影響は大きく、まさに芸術界のレジェンドです。
いわの美術ではイサム・ノグチの作品を探しています。
イサム・ノグチ自身が手掛けた作品の他、今回お買取りしたAKARIシリーズも買取対象です。
AKARIシリーズは現在も販売されている関係で、お品物の状態によってはお買取り対象外となることもありますので、まずは買取対象かどうか無料査定でお問い合わせ下さい。
写真を送信することによりお手軽に無料査定を受けることができる、WEB無料査定又はLINE無料査定のご都合の良い方をご使用いただけます。
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