北大路魯山人とは
漫画「美味しん坊」の登場人物のモデルになっている北大路魯山人は、明治16(1883)年、京都の社家の次男として誕生しました。
生まれて直ぐ里子に出され、それから転々と養家が変わるという不遇の家庭環境で幼少人期を過ごしますが、小さな頃から料理と絵画の才能に長けており、養父である木版師の福田武造に画家になることを所望しましたが大反対され、丁稚奉公に出されます。
その後、書の才能が現れ始め、20歳頃に岡本可亭(岡本太郎の祖父)に弟子入りし、書だけでなく版下や篆刻も学び、その道で花を開かせました。
長浜、京都、金沢などで食客として招かれているうちに食への探求が深まり、美食家として名を馳せるまでに成長します。
後に、料理のみならず、料理を盛る皿も自ら作陶し、建築・庭・家具・調度品と、料理周りの全てにおいて拘り抜いた会員制料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を立ち上げ、政財界の大物や文化人の間で人気の料亭となりました。
客が客を呼び、会員数は一時期千人を超えるまでとなり、一度に100人前の料理を提供することも増え、開店当初の拘りの古陶皿に料理を盛って出すスタイルでは皿がまわらなくなり、魯山人は本腰を入れ星岡窯(せいこうよう)という窯を創設し、金沢や京都の有名な窯元より職人を引き抜いて、理想の器の創作に没頭していきました。
盛況を誇った「星岡茶寮」でしたが、魯山人の傲慢な物言いや態度、採算度外視の経営方針が反感を買い、遂には星岡茶寮から追放され、「星岡窯」に籠り作陶に専念したと言われています。
魯山人作品の特徴
20~30万もの作品を残したと言われる魯山人ですが、全てを自分で作った訳ではなく、多くは彼の指示の下、星岡窯の職人達が作っていたそうです。
一方魯山人は、土はこねず、ろくろ作業も苦手で、せっかち故にしばしば窯出しを焦らせたという逸話も残るほどです。
根っからの陶工ではなく、あくまでも料理が美味しく見える為の器を作るということが大本命だったとも言えるかもしれません。
【特徴其の一】実用品としての器
魯山人は鑑賞用として楽しむ美術品ではなく、主に、実生活で使う為の平皿や椀、向付などを作製しました。
料理を盛りつけた時に料理が一番美しく見えるように、手に持つ器は手に馴染むようにと、ただ見た目に美しいだけではなく、料理を一番美味しく食べる為の器という考えのもと作られている点が特徴の一つです。
【特徴其の二】自由闊達な絵付けと大胆な造形美
器の平面、曲面に合わせた筆づかいで、自由闊達に描かれた絵付けも特徴の一つと言われています。
また、四角皿や平皿に一枚として同じデザインの物はなく、縁がうねっていたり、四隅が反りあがっていたりと、大胆な造形も魯山人作品の真骨頂と言えます。
独自の審美眼で描かれた器は大変風流で上品な趣があり、自身でその作品を雅味のある陶器という意味をもつ、雅陶とよんでいました。
【特徴其の三】箱や裏面にサイン
作品の底部に裏印があるのも特徴の一つです。
作陶期やどこまで自分が制作に関わったかによって表記が異なりますが、「魯山人」や「魯」という漢字や、「ロ」というカタカナが記されています。
おもに前半期は漢字、後半期はカタカナのロが裏印されていることが多く、現存する作品で最も多いのカタカナ表記のもののようです。
まとめ
魯山人は染付、色絵に始まり、青磁、白磁、信楽、伊賀、粉引、刷毛目、唐津、萩、志野、織部、黄瀬戸、瀬戸黒、金襴手、備前、金銀彩に至るまで、様々な手法を取り入れ、独自の世界観を創りあげました。
多産されたことと、実用品として作られたという事もあり美術品程の値段ではなかった為、比較的多く流通はしています。
ただ、有名作家故に模倣品も数多く存在するのも事実です。
ご売却の際には、鑑定書の有無で査定金額に大きな開きが出てきます。
また、後期の作品ですと、共箱の有り無しも高額査定ポイントとなります。
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