写真のお品物は三島手の平茶碗です。
陶芸評論家の久志卓真の鑑定による極書があり、確かなお品物として高評価にて弊社でお買取いたしました。
三島手は李氏朝鮮から渡来した高麗茶碗の種類の一つで、高麗茶碗のなかでも時代が古く、日本で作られた茶陶とは異なる趣をもっています。
お品物には久志卓真によって書付された箱が付属し、品物の確かさを示しています。
骨董に共箱など箱をつける文化は日本独自のもので、唐物・高麗茶碗など舶来品のうち珍重された品は日本で箱が誂えられました。箱についてはこちらをご参照ください。
久志卓真の本業はバイオリニスト兼作曲家という音楽家です。
1898年に生まれ大正から昭和にかけて新進の音楽家としても活動しながら、骨董収集を趣味とするうちに高じて陶磁器の研究評論家となりました。
中国・朝鮮の古陶磁である唐物・高麗茶碗を中心に歴史、仏教美術についても専門家と比して劣らない見識をもち、1940年代から70年代にかけ雑誌への寄稿、多数の出版でも著述家として活躍しました。
また現在は閉館してしまいましたが、久志美術館でみずからのコレクションを展観していました。
古陶の箱書きも多く、現在の中古美術市場に流通する陶磁器にも久志卓真の書付箱が付属するお品物が散見されます。
著書一覧
1937年『現代音楽論』
1941年『図説朝鮮美術史』
1941年『朝鮮名陶図鑑』
1942年『支那の陶磁』
1943年『支那上代史』・・・中国漢代までの歴史書
1943年『支那明初陶磁図鑑』・・・明時代の初め頃の陶磁器についての本
1944年『朝鮮の陶磁』
1947年『仏教美術の鑑賞』
1947年『工芸の古典と新精神』
1949年『中国の染附と赤絵』
1954年『中国陶磁1』
1955年『世界陶磁全集10』
1962年『宋磁名品展:定窯、磁州窯』
1963年『骨董遍歴』
1964年『中国陶磁奥義』
1968年『明初陶磁図鑑』
1972年『乾山』
1974年『朝鮮の陶磁』
朝鮮半島は日本と古来から往来があり、近世の朝鮮半島産の陶磁器はとくに唐物と並んで珍重されました。
10世紀から14世紀に栄えた高麗時代には高麗青磁が、14世紀から19世紀の李氏朝鮮(李朝)時代は陶磁器が渡来し、また豊臣秀吉の文禄・慶長の役で朝鮮の陶工が日本に連れて来られ、のちの陶磁器産業発展の重要な礎となった歴史もあります。
これらの高麗から李朝にかけての朝鮮半島産の焼き物を総称して高麗茶碗と呼びます。
朝鮮半島の喫茶文化は高麗建国頃から500年間大いに栄えたものの、李朝になると儒教の普及により僧侶など一部階級をのぞいて緑茶離れが進みました。
高麗茶碗の多くは朝鮮半島の日常の食器として焼かれたもので、日本の茶陶とは形が異なりながらも、茶人たちの審美眼によって見出され抹茶椀に用いられました。
高麗茶碗特有の形に、現代の食器でいう深皿に似た平茶碗があり、今回ご紹介の品物もこれにあたります。
多くは朝鮮半島の日常雑器だったもので、時代が下り江戸時代になると日本からの発注をうけて作られる種類が現れます。
大別すると、粉青沙器という白釉薬のもの、御本茶碗という日本企画のもの、それ以外の各種となります。
これらはすべて千利休に前後する侘び茶の美意識・数寄者好みので見立てられました。
楽焼を隆盛させた侘び茶の世界は、茶碗の個性を重んじ、そのため日本で珍重された高麗茶碗は個性的な品が多く、朝鮮半島現地の主流とは趣が異なるとされています。
雲鶴(うんかく)
雲と鶴の文様が主流の高麗茶碗最古の種類。
赤黒い素地に篦彫りと型押しで文様をつけた後、白泥または黒泥で象嵌し、青磁釉を高台裏まで厚くかけ焼成しています。
柿の蔕(かきのへた)
李朝初期に焼かれた暗褐色の茶碗で、伏せた姿が柿のヘタに似ることに由来し、侘びのある渋い風情が特徴です。
鉄分の多い砂混じりの胎土に薄い釉薬をかけています。
―粉青沙器―
李朝では白磁を王族専用とし、一般庶民は白磁の使用を禁止され、一連の白泥による白い焼き物が生まれたとされています。
三島・刷毛目・粉引がこれに属します。
三島
雲鶴に次いで古く、15~16世紀に焼かれた粉青沙器の一種です。
鼠色の鉄分の多い素地に篦・櫛・印で紋様を彫り、白土の化粧土を塗布し余分を取り除き、白象嵌にした状態で長石釉または木灰釉をかけ焼成します。
古三島は16世紀以前の作で、比較的緻密でないつくりをしており、対してその後に続く礼賓三島は官用品として上納された所以から文様が端正で細やかな上手物となっています。
慶長年間以降、日本から発注された彫三島・御本三島も作られました。
刷毛目(はけめ)
三島と同様に李朝15~16世紀に焼かれ、雲鶴に次ぐ古い粉青沙器の高麗茶碗です。
鉄分の多い鼠色の素地に、泥漿の白泥を刷毛で高台まで全体に塗布し、刷毛の跡が景色となります。
粉引(こひき)
日本の骨董で人気が高い粉青沙器の高麗茶碗の一つです。
刷毛目・三島が朝鮮半島の広い範囲で作られたのに対し、正統な粉引は宝城郡の一部地域でのみ焼かれ、「宝城手」とも呼ばれます。
素地と化粧土も刷毛目に近いですが、高台まで釉薬が総掛けされていることで区別されます。
白泥のなかに器を浸し、その上に透明釉を薄くかけ焼成し、強度が比較的弱いものの、柔らかな質感で粉を引いたように見えます。
堅手(かたで)
白い高麗茶碗の一種ですが、半磁器質なため粉青沙器と性質が異なります。
見た目が硬質なことから堅手と呼ばれ、古堅手・雨漏堅手、鉢の子、金海堅手などの派生があります。
井戸
日本の骨董で人気の高い高麗茶碗の一種。
鉄分を含む赤褐色の素地は枇杷色と称され、竹の節に似た高台とその釉薬のかいらぎに似た様、直線の胴、深めの見込みなどの特徴を持ちます。
李朝初期の日常雑器だったものが室町末期に渡来し、千利休らに見出され抹茶椀に見立てられ、高麗茶碗のうち最も珍重されました。
その後高麗写しを通して井戸茶碗の特徴は和物に取り入れられていきます。
熊川(こもがい)
熊川なりと呼ばれる形が特徴で、口縁に反りがあり胴は丸く、見込みの中心に釉薬がたまり鏡・輪などと呼ばれます。
造りにより真熊川・鬼熊川・紫熊川などの派生があります・
玉子手(たまごで)
熊川または粉引の造りが上手いもの(上手)とも言われ、卵の殻のように滑らかな陶肌をもち、黄味がかった色みを基準に窯変で青みを帯びるものもあります。
御器、五器とも書き、禅院で使われる御椀という木の椀に似ていることに由来します。
深さのある椀型で、裾広がりの撥高台が特徴的で、堅く白茶色の素地に半透明の白釉をかけ焼成されます。
蕎麦
江戸中期以降の記録に残される比較的新しい時期の高麗茶碗です。
ざらつきのある地肌は鉄分と砂を含み、蕎麦に似た風合いから名付けられました。
淡い青灰色の釉薬が総がけされ、酸化により黄色に転じた品もあります。
斗々屋(ととや)
褐色の暗い陶土にごく薄い釉薬がかかり、椀形の本手斗々屋と杯形の平斗々屋があり、同じ読みで魚屋とも表記されます。
絵高麗(えごうらい)
古くは高麗茶碗の一つと考えられていましたが、後年になり中国の磁州窯系の「白地黒花」であると判明。
灰白色の素地に白絵土で土台をつくり、鉄絵の具で絵付けし透明釉をかけ焼成する「白地鉄絵」を基本として、さらに土台にかけた黒釉を掻き落として柄をつけた「掻落し手」、茶の湯でひときわ人気のあった花紋の「梅鉢手」があります。
―御本(ごほん)―
日本から注文し17~18世紀にかけて朝鮮半島で焼かれた茶碗の総称。
御本はお手本の意で、高麗茶碗初期を模範にして日本で下絵または切り形を作成し、それに倣って制作されました。
元禄頃より陶土の確保が難しくなり1718年に御本窯は閉窯しました。
御所丸(ごしょまる)
御本茶碗の一種で、古田織部の織部茶碗の意匠による高麗茶碗
伊羅保(いらぼ)
御本茶碗の一種で、砂混じりの褐色の胎土にざらつきのあり、それを当時の語でいらいらと表現することから名付けられています。
半使(はんす)
李朝の判事が持参した茶碗に由来し、呉器に近い堅めの印象でやや薄づくりで白釉が薄くかけられています。
金海(きんかい)
慶尚南道の古都、金海の窯で焼かれた御本茶碗の一種です。
磁器質の素地に乳白色の釉薬を高台までかけ、土みずとなっています。
胴には猫掻(ねこがき)という櫛目状の線模様が彫られる特徴があり、赤みが鹿の子状に出るものもあります。
高麗茶碗は時代が古く、日本で設えられた箱の書付などで素性を伝えるものが多く、またそれぞれの真贋と種類を見分けることも難しいジャンルと言えます。
いわの美術では骨董品・美術品を中心にお買取りしており、骨董の豊富な知識とお買取の長い経験をもつ査定員が在籍しております。
焼き物は現物の風合いから知ることが多く、査定は現物をみることが重要となりますが、お写真からおおよその判断も可能です。
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