蜀江文様とは
しょっこうもんよう、という名のこの文様は、現在では着物や帯の意匠として多く用いられていますが、もともとは中国から日本にもたらされた錦織(にしきおり)という絹織物に縁の深い文様です。
八角形と四角形を隙間なく連続的につなげたこの文様の「蜀江」という呼び名は、中国の三国時代に魏、呉と共に三国時代を形成した国「蜀(しょく)」にあった「蜀江」という河の名前に由来しています。
蜀江は、現在の四川省で、現在の同省成都付近を流れる揚子江上流にあった蜀の首都を流れる河で、古くから良質な絹織物の産地として知られ、三国時代には紅地の豪華な錦織がつくられていました。錦織とは、高機(たかばた)を用いて多彩な色糸で文様を織り上げた絹織物で、古代の中国で考案されました。当時の中国では、絹はたいへん貴重なもので、錦織はその中でも金と同じ価値をもつともいわれ、位の高い貴族の正装に用いられていました。
蜀江で作られた錦織は、奈良時代に日本にも輸入され、その紅色の地の美しさと錦織による精緻で華麗な文様は当時の人々を魅了しました。
法隆寺には当時もたらされた錦織が数多く伝えられていますが、そのなかでも、蜀江からもたらされた紅色の錦織は「蜀江錦」と呼ばれ、とくに珍重されました。
当時もたらされた蜀江錦は紅色と金色を用いて、二重格子の文様の中に、蓮文様と忍冬(にんどう)文様(唐草文様とひとしい文様)を配したものでした。この蜀江錦は法隆寺に伝わる宝物として「法隆寺蜀江錦」とよばれています。中国ではこの蜀江錦の図案をもとにして、さまざまな文様の蜀江錦が織られましたが、その中でも多く用いられた文様が、八角形の中に龍や鳳凰、蓮の花などの吉祥文様を配したものでした。こうした蜀江錦は、明の時代に多くつくられ、日本には室町時代にもたらされました。
中国からもたらされた蜀江錦は能装束や茶器の仕覆、書画の表装などに用いられるようになり、「名物裂」として重宝されました。お写真の裂は徳川家康の遺品で明時代 16世期の中国で作られた裂です。
金糸が織り込まれて文様は見えにくいかもしれませんが実に豪華な物ですね。いわの美術では、ご遺品の整頓もお手伝いしておりますので、何なりとお申し付け下さいませ。
当時もたらされた蜀江錦に多く織りあらわされた八角形と四角形を繋いだ文様がのちに「蜀江文様」とよばれるようになり、この蜀江文様を模してさまざまなデザインが考案されました。
蜀江文様は、現在でも格調高い文様として、豪華絢爛な錦織により多くあらわされ、袋帯や飾り袱紗などに用いられています。