日本だけでなく、海外の方から根強い人気がある芸術品が日本刀です。実際、日本で発行される英字新聞には、毎日のように日本刀の広告が掲載されています。
日本刀には時代に応じた分類があります。分類方法には諸説ありますが、例えば古刀は慶長元年(1596年)よりも前に作られた刀、新刀は慶長元年より後に作られた刀、現代刀は明示9年(1876年)の廃刀令以降に作られた刀を指すといわれています。
その中でも、今回は古刀期の有名な刀工及び刀派をご紹介します。
三条宗近
平安時代を代表する名工です。山城国京の三条に住んでいたため「三条宗近」と呼ばれていました。日本刀が直刀から反りのある湾刀に変化した時期の名工として知られ、現存する有銘の作刀は少ないものの、「宗近」と「三条」の銘があります。
かつては徳川将軍家が所蔵し、現在は国宝に指定されている「三日月宗近」が代表作です。天下五剣の1つで、刀身に鎬と反りのある日本刀としては最も古い刀の1つとされます。
正宗
鎌倉時代末期から南北朝時代初期に相模国鎌倉で活動した名工です。正宗は「相州伝」と呼ばれる作風を完成させ、後の刀作りに影響を与えました。正宗の出自については不明な点も多く、正宗が作った刀にまつわるさまざまな逸話や伝説が生まれています。
正宗は日本刀の代名詞であり、正宗の手による刀及び短刀は国宝や重要文化財に指定されています。
「正宗十哲」と呼ばれる正宗の10人の高弟がいたことから、正宗が後の名工に多大な影響を与えたことが伺い知れます。
粟田口派
鎌倉時代初期から中期に京都の粟田口で作刀した流派を粟田口派と呼びます。有名な粟田口派の名工として国綱と吉光がいます。
粟田口国綱
鎌倉時代初期、山城国粟田口の名工です。京都の粟田口には古くから刀工がおり、国綱は名工と謳われた粟田口六兄弟の末弟です。北条時頼の依頼を受けて「鬼丸」を作刀しました。
栗田口吉光
鎌倉時代中期の名工です。通称を藤四郎といい、短刀作りの名手として知られます。吉光は粟田口六兄弟の子孫で、鎌倉の岡崎正宗と並ぶ名工です。大半の作には「吉光」の銘が入っています。年紀の銘がないものの、親や兄弟の作から鎌倉中期の刀工と見られています。
豊臣秀吉は正宗、郷義弘とともに吉光を「天下の三名工」と呼びました。権力者が好んで収集したため、戦乱の中で焼けてしまった刀も少なくありません。
長船派
「長船」「備前長船」とも称される「長船派」は、鎌倉時代中期に備前国邑久郡長船(現在の岡山県瀬戸内市)を拠点としていました。古備前派の近忠・光忠親子が祖とされます。
近忠には作品が現存せず、名匠として知られる子の光忠も作品に年紀がありません。現在銘が確認できる最古の作品は、光忠の子である長光が作った刀です。
長光は国宝の「大般若長光」など、古刀期において最も現存在銘作刀が多い刀工の1人です。
長船派は近忠や光忠、長光の他にも多くの名工を輩出しています。
南北朝時代に活躍した刀工としては、長光の子もしくは弟子とされる兼光の流れを汲む兼光系の倫光・政光・基光、長義系の長重・長義・兼長、元重系の元重・重真、大宮系の盛景・盛重が有名です。
室町時代初期に盛光・康光らの手によって作られた刀は応永備前と呼ばれました。室町時代以降も長船派の技術は時代を超えて受け継がれていきます。
おわりに
古来は武器として使用された刀。その姿は武器とは思えないほどの芸術性を合わせ持っています。
古刀の一部は戦火によって焼失してしまいましたが、戦火を免れた刀は博物館や個人により所有され、見る人の目を楽しませてくれます。作者や流派によって特徴が異なるため、刀同士を比較してみるとより楽しめるのではないでしょうか。
「いわの美術」では、日本刀をはじめさまざまな骨董品・美術品のコラムをご紹介しています。ぜひ一度ご覧ください。