日本の美術品の1つに日本刀があります。日本刀は作刀された時代によってさまざまな分類がなされていますが、慶長元年(1596年)よりも前に作られた古刀と、慶長元年より後に作られた新刀、という分類が有名です。
慶長を基準として日本刀を古刀と新刀に区別する背景には、慶長時代に比較的世の中が安定したことが挙げられます。日本のどこにいても均質な鋼が手に入るため、刀匠たちは1つの土地に縛られることがなくなり、全国各地で個性豊かな新刀が生まれました。
今回は、堀川国広や肥前忠吉などの新刀期の有名刀工や刀派をご紹介します。
堀川国広
堀川派の祖で初期新刀の名工です。幕末の土方俊三も国広の刀を愛用していました。
戦国大名伊東氏に仕えていましたが、伊東氏の没落後は諸国を放浪しながら作刀したと伝えられています。その後京都に落ち着いた国広は堀川派を形成し、国広とその一門は後世の刀作りに大きな影響を与えました。代表的な刀に「山姥切国広(やまんばぎりくにひろ)」があります。
埋忠明寿
山城国の名工で、三条小鍛冶宗近の末裔と称する新刀鍛冶の祖です。
足利将軍家に仕える金工師であった埋忠は彫金に優れ、鍔などの金工作品も現存しています。刀は現存数が少ないものの、倶利伽羅竜の彫物を入れた短刀(「銘山城国西陣住人埋忠明寿」)などを残しています。後進の育成にも力を入れ、肥前忠吉などの弟子を育てました。
肥前忠吉
埋忠明寿の弟子で幕末まで続く肥前刀の開祖です。龍造寺家の家臣で武士だった父が戦死し、このときまだ13歳だった忠吉は軍役を諦めて刀匠に転身し、埋忠明寿の弟子になりました。忠吉は鍋島藩お抱えの刀工となり、以後、忠吉の名前は明治まで襲名されます。忠吉の手による刀を岡田以蔵や勝海舟、田宮重正が所有していたといわれています。
越前康継
江戸幕府御用鍛冶を務めた名工です。出自は明確になっていませんが、近江(滋賀県)に生まれ、後に越前に移り住みました。最初は徳川家康の息子、結城秀康のお抱え鍛冶でしたが、技量を認められて江戸に呼ばれました。その後江戸と越前を隔年で行き来します。
南蛮鉄を使った最初の刀工とされ、三代目康継は寛文新刀(江戸時代中期の日本刀)の名工として知られます。
虎徹
正宗と並ぶ江戸時代の刀工であり、刀の名前にもなっています。元々は甲冑師でしたが、50歳を過ぎて刀工になりました。刀の他に籠手や兜などが残っています。東西の刀工の代表とされ、東の虎徹、西の助広といわれました。
甲冑師だったため刀身彫刻の名手でもあり日本刀工の中でもトップクラスの技術といわれています。上流階級に非常に人気がありましたが、贋作も多く出回りました。虎徹は切れ味が鋭いことで有名で、一般の武士にはなかなか手が出せないほどの上級品だったといわれています。
津田越前守助広
摂津国の名工で江戸の虎徹とともに新刀の横綱と呼ばれました。大坂の井上真改と並ぶ大阪新刀の代表的な刀工です。千数百の作品を残したといわれていますが偽物も多く、虎徹、助広、真改の偽物は数万点に上るといわれます。
井上真改
大阪正宗といわれるほどの名工で、助広との合作も残しています。刀だけではなく、書やさまざまな芸術に造詣が深かったと伝えられています。重要文化財に指定されている刀と太刀があります。
おわりに
戦乱の時代に主に武器として使用するために作られた古刀とは異なり、慶長という比較的安定した時代に作られた新刀には町民文化を反映した華やかな作品が多く見られます。
時代が下るにつれて刀の需要は縮小していき、刀は武士の魂を表す象徴になりました。新刀は悠久の歴史と武士の気高さを現代に生きる私たちに伝えてくれます。
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