織田廣喜の代表作シリーズ『少女』のうちの一枚です。
理屈抜きで多くの人が惹かれる織田廣喜の絵は、独特の詩情と温かな人間味を感じさせます。
大切なのは技術や知識ではなく、心の豊かさである、ということを作品とその生き方で見せてくれた画家です。
画家 | 織田 廣喜(おだ ひろき) (織田 広喜) |
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時代 | 1914年~2012年 享年98 |
受賞 | 二科展にて内閣総理大臣賞、青児賞、日本芸術院恩賜賞、日本芸術院賞など |
受章 | 勲三等瑞宝章受章、フランス芸術文化勲章、シュバリエ |
就任 | 二科会常務理事、理事長 |
織田廣喜は1914年に福岡県で生まれています。
画家になるべく18歳で上京し、苦労して時には泡盛の空き瓶に裸婦を描いて売るなどして学費を稼ぎ、日本美術学校絵画科で学び、大久保作次郎、藤田嗣治、林武の指導を受けました。
1940年に仁科展に初入選、その後は戦争の徴用により絵画どころではなくなりますが、戦後は目をかけてくれていた東郷青児の家で家事手伝いなどをします。
とても経済的に苦しい画家生活で、東郷青児や周りの人は心配していました。
しかし織田廣喜に惹かれたとある女店主が、面倒見るので絵だけ描けば良いと言うので周囲が見合いを後押ししても、本人にその気はなく田舎に逃げてかわしたそうです。
1946年 二科展で『黒装』が二科賞を受賞、この時 後に妻となる萬宮リラも18歳の若さで入選し東京を訪問、岡本太郎に受賞パーティ会場まで案内するように言われたことがきっかけで知り合いました。
萬宮リラは織田廣喜に会う前に見た受賞作品『黒装』に感動したそうで好意を寄せ、その後は文通でやりとりを続けます。
織田廣喜は1948年から岡田謙三の家に住み込み、ここから画業に専念することになりました。
その岡田謙三は萬宮リラの絵を見て「他に女がいっぱい訪ねてきたけど、この人を嫁さんにしたほうがいいよ」と言っていたそうです。
その後 織田廣喜は1950年にニューヨークに移住することになった岡田謙三の紹介で中原実の家に居候し、翌年に萬宮リラと結婚してからは高田馬場にあった旧陸軍の馬小屋の守衛室を自分たちで手を加え住居にしています。
その建物は無茶苦茶に打ち付けられた板や針金に灰色の塗料など不安定で奇妙に見え、アトリエは野ざらしでしたが、夫妻は楽しげで貧しさなど微塵も感じさせませんでした。
この時代の絵画界では大きい絵の競争があり、キャンパスを買うお金がなかった織田廣喜は、いろんな人から集めた古キャンパスを井の頭公園の池に1週間漬けて絵の具を剥離させ、リラ夫人が畳糸で継ぎ合わせ幅3mを超える500号のキャンバスとなったそうです。
そのキャンパスを使って二科展ぎりぎりに4~5日で仕上げた作品『讃歌』で仁科の会員となります。
さらに翌年は洋服の芯地を張り合わせ、誰よりも大きい1000号の『月見』を完成させ高い評価を獲得し、以後も数百号の大作を多数制作しました。
1960年にはずっと憧れていたフランスを訪れ、その後も度々渡仏しパリの風景や女性などの作品を制作し人気となります。
自身も画家であったリラ夫人は出産後は家事育児に専念しましたが、素晴らしい作品を残しました。
そして長男・廣呂彦、次男・きじ男も画家となり、家族全員が画家という珍しい家族です。
1983年に突然リラ夫人がくも膜下出血で倒れ、以後植物状態となります。
織田廣喜は15年間リラ夫人を献身的に介護し見守り、そのベッドの傍らで作品を描いていたそうです。
毎日無事でいて欲しいと祈るような気持ちで、リラ夫人が横にいることに感謝しながら描き、「楽しんで描こう。自分が楽しければ人も楽しいのです。絵を仕上げよう、まとめよう、とは考えません。」と語っています。
1998年にリラ夫人が70歳で亡くなった夜、織田廣喜と息子達は別れを惜しむようにリラ夫人の顔を何度もスケッチしました。
リラ夫人が他界した1ヶ月後にパリを訪問した際や織田廣喜展が開催された時、織田廣喜はリラ夫人の遺骨の一部を所持しています。
ずっと心の中で一緒なのでしょう。
織田廣喜の人気シリーズである『少女』は、リラ夫人がモデルであると言われています。
晩年の織田廣喜は規則正しい生活を送る中で、ほぼ毎日見る夢を起きた時にスケッチしていました。
夜11時半から寝たり起きたりを繰り返しながら、枕元のメモにスケッチを残し、朝10時に起床してすぐにアトリエで作業し、より幻想的で不思議な光が増した作品を生み出していました。
織田廣喜の初期の作風を東郷青児は「灰色の郷愁」「漠然たる世紀末の不安」と表現しています。
深い孤独感を感じさせる作風は、リラ夫人との出会いから変化し、子供が生まれるとより豊かで複雑な構成になりました。
1960年46歳の時に単身で初めてパリを訪れ刺激を受け、作品は色彩豊かになります。
以後何度も渡仏しパリの風景や女性などを多く描き、サロン・ドートンヌ会員に推挙され、後にフランス芸術文化勲章・シュバリエ受章などフランスでも認められた画家です。
織田廣喜は名画と呼ばれている作品は顔が描かれている、その顔に作者の心が入った描き方だと言い、自身も心を入れて顔の表現を試みていました。
そして日本の女性は世界一だけど絵になりにくい、フランスなど向こうの人は写生だけで絵になる、でもそれは悪い意味で内容がない絵になってしまうと語っています。
日本人の心の優しさなどを表現するには3割が本当で7割はデフォルメする必要があり、それは写真や写生にはできない絵画の魅力だそうです。
視覚ではなく心で描かれた織田廣喜は多くの人を惹きつけています。
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