作品名にある『美しさと悲しみと』は当時人気であった川端康成の小説『美しさと哀しみと』(1961~1963年)に掛けていると見られます。
小説は日本では映画化の他に3回ドラマ化されており、関野準一郎がこの版画を制作した前年1985年にはフランスでも映画制作・公開された、愛と嫉妬が渦巻く物語です。
関野準一郎が描いている女性は口紅が下唇のみなので、まだ1年目の年若い舞妓だと推測できます。
だらりの帯には平安時代の十二単衣の女性が映し出されており、女性の身だしなみは古の時代から続いていることを示唆しているのかもしれません。
関野準一郎 1914-1988年(大正3年~昭和63年)
関野準一郎は1914年に青森市の肥料米殻問屋に生まれ、裕福で何不自由なく育ち、陽気で行動的な人物であったようです。
中学生の時に友人と同人雑誌を発行するなど、恵まれた環境の中で同級生や先輩の影響を受け、早くから木版画、エッチング、油絵などを始めました。
中学卒業頃から版画の同好会に入り、大人に混ざって旧家が所有する浮世絵を見て周り教養を深めた他、油絵にも力を入れており18歳の時に青森県展で油絵が入選しています。
この浮世絵と油絵の経験が後の日本的なモチーフに西洋的な写実という作風に繋がりました。
1936年にはエッチングの作品で帝展に入選、木版画でも第二回日本版画協会展 入選するなどマルチな才能を見せますが、本人は家業を継いで趣味として絵をやることを考えていたようです。
しかし1939年24歳の時に家業が没落し、これをきっかけに画家で食べていく決心をして上京、雑誌編集やインキ製造職工などで生活を凌ぎながら恩地孝四郎に師事します。
恩地孝四郎のサロンには駒井哲郎、畦地梅太郎、斎藤清、山口源などの版画家が集まり交流を通して多くの刺激を受けました。
1940年に国画会賞を受け画家として開花したタイミングで時代は戦争へと向かい、戦中は軍需会社厚生課職員として働くことを余儀なくされますが、戦後に大きな飛躍を遂げます。
特に人物画で確固たる地位を築きました。
1950年頃には駒井哲郎と共に銅版画研究所を開設し勉強会を開催し、浜口陽三、浜田知明、加納光於、野中ユリなどと交流しています。
国内だけでなく国外での評価も高まり1953年スイス国際版画展に招待出品を皮切りに多数の国から招待出品や受賞などを重ねました。
1958年は招待される形で渡米となり、ヨーロッパにも滞在し、この経験からさらに作品の幅を広げることになります。
多種多様な作品を残し、戦後の日本の版画界の巨匠であった関野準一郎は1981年に紫綬褒章を受章、1988年に亡くなるまで積極的に作品を制作していたそうです。
多彩な関野準一郎の作品
関野準一郎は版画では銅板画もやっていましたが、木版画を主として取り組み、風景や人物など様々なモチーフを描き、またモチーフに合わせて表現方法を大きく変えています。
代表的なものとして幾何学模様的な『屋根』シリーズ、浮世絵的で生活感が漂う『東海道五十三次』シリーズ、心象的にデフォルメされた『墓とニューヨーク』『赤富士』などの風景画、装飾的な欧米の風景画などが挙げられます。
人物画に関しては、多くの作品のモチーフが日本人であり、東洋の美を西洋的な手段を用いて表現しています。
晩年は舞妓や踊り子などエンタメ界で働く若い女性の作品を多く残しており、今回お買取りした『夕化粧』もその晩年作のうちの一つです。
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