江戸時代後期に活躍した文人画家、京焼の陶工であり、青木木米は永楽保全、仁阿弥道八とともに「京焼きの幕末三名人」と呼ばれました。
青木木米の作品は陶工として煎茶器を主に製作しており、白磁、青磁、赤絵、染付と幅広く、また鳥辺山にある墓碑には「識字陶工木米之墓」と刻まれているため生涯陶工としての精神を貫いたことも分かりますが、書画詩文にも素晴らしい作品を残していることでも有名です。
青木木米は京都祇園の料理茶屋「木屋」の青木佐兵衛の子として誕生し、家督を継いでからは代々の名前である佐兵衛と改名し、通称を木屋佐兵衛と言いました。
青木木米とは号であり、幼名は八十八であったため幼名の画数をまとめて米とし、屋号の木と合わせて木米と称しました。
青木木米は数多くの号を用いており、他には百六散人、九九鱗、古器観、青来、聾米などがあります。
聾米に関しては、青木木米が窯の温度を確かめるために窯に耳を近づけて、炎の燃えるパチパチという音で温度を判断していたのでいつも耳が赤く腫れ上がり、ついには聴力を失ったため晩年に名乗るようになったと言われています。
青木木米は少年時代から文雅の道に興味を持ち、高芙蓉に書や古器物の鑑賞することを学びました。
29歳の時に清の朱笠亭が著した陶芸の技術書である「陶説」に感銘を受け、作陶を志すようになり陶芸家の奥田穎川に入門しました。
そして30歳の時に京都の栗田口に窯を開き評判を得てたちまち人気となり、その後栗田静蓮院宮の御用を拝命するほどになります。
また加賀窯業を再建するために加賀藩前田家から依頼されて、青磁、金欄手、色絵などを焼き、加賀九谷焼の再生に協力しました。
青木木米は陶工としてだけではなく文人画家としても秀作を残しており、幅広く芸術性に富み今でも人気の高い作家の一人です。
1767年 京都祇園にある茶屋「木屋」の長男として生まれる
1796年 京都の栗田口に開窯する
1805年 栗田静蓮院宮の御用焼物師となる
1806年 加賀へ赴き、加賀九谷焼の再生に尽力する
1820年 「上奥殿侯書」を著す
1833年 7月に逝去する
『兎道朝暾図』
『詩文煎茶碗』
『白泥鬼面文涼炉』
『三島手急須』