伊万里焼を買取ります
佐賀県有田町を中心とする肥前国(現・佐賀県および長崎県)で生産された磁器の総称で、製品の主な積み出し港が伊万里であったことから、消費地では「伊万里焼」と呼ばれていました。
そのため、三川内焼、波佐見焼なども伊万里焼に含まれています。
船に代わって鉄道など陸の輸送手段が主流となってきた事から有田地区の製品を「有田焼」、伊万里地区の製品を「伊万里焼」と呼び分けるようになり、研究者の間では「伊万里焼」を「肥前磁器」と呼ぶ者も多いそうです。
佐賀藩(鍋島藩)の藩祖・鍋島直茂が豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮から多くの陶工を日本へ連れ帰り、有田で陶磁器製造を開始したのが伊万里焼の始まりとされており、通説では朝鮮出身の李参平(日本名・金ヶ江三兵衛)が有田の泉山で磁器の原料となる磁土を発見し、有田東部の天狗谷窯で磁器の制作を行った事が始まりとされています。
しかし、近年の窯跡調査によると有田西部の天神森窯、小物成窯、小溝窯などの窯で最初の制作が行われたのではとされており、定説としては1610年が始まりとされています。
伊万里焼は製造された磁器や目的によって呼び名が変わってきます。
1610年代から1630年代頃までの初期製品を「初期伊万里」と呼んでおり、青一色で模様を表した染付磁器が主で、絵付けの前に素焼を行わない「生掛け」の技法を用いている事が特徴です。
また、初期の伊万里焼には砂目積みという技法が使われており、この技法は窯焼き時に製品同士の熔着を防ぐために砂を挟む技法で朝鮮独特の技法です。
1640年代からは有田西部の山辺田窯などで色絵磁器の生産が行われ、国内向けの製品が作られました。
大名や武家はもちろん、民衆にまで広く知れ渡り、どの家庭にも1枚はあると言われるほど日用的な物として定着しました。
この頃の作品は「古九谷様式」「初期色絵」と呼ばれ、これは加賀(現・石川県)の九谷で生産されたものと考えられていたからでした。
そして、鍋島藩が将軍家や諸大名などへの贈答用としての高級磁器の生産を行うようになると、利益を追求したものではなく芸術性の高い完璧なものを求めた「鍋島様式」「鍋島焼」と呼ばれる伊万里焼が生まれました。
その後、素地や釉薬に改良が加えられ、白磁の地にほとんど青味のない「濁手」と呼ばれる乳白色の素地に色絵で絵画的な文様を描く「柿右衛門様式」が生まれ、染付の素地に赤、金などを多用し絵付けを施した「古伊万里金襴手」という製品が生まれ、ヨーロッパ向けの輸出品として盛んに制作されました。
そのため、この時代に作られていたものは海外では「Old Imari」として認識され、現在でも世界中に熱烈なコレクターが存在します。
また、伊万里焼と古伊万里の区別の仕方は、その磁器が持つ骨董的価値の有無が大きく関係しています。
江戸時代に有田で焼成された歴史的、骨董的価値のある磁器は「古伊万里」、明治以降に現在の佐賀県伊万里市で焼成された磁器のことを「伊万里焼」としています。