古伊万里は伊万里焼の中でも江戸時代に焼かれたもので、主に有田や波佐見周辺で作られた磁器製品のことをさします。
日本で磁器が本格的に焼かれるようになったのは豊臣秀吉の頃、有田(現在の佐賀県有田町)が最初だと言われています。有田周辺で焼かれた磁器は伊万里港に運ばれ、伊万里から積出されたため「伊万里焼」と呼よばれるようになりました。
古伊万里とは、現代、伊万里市内で焼かれている伊万里焼と区別するために、江戸時代に焼かれた古い伊万里焼を古伊万里と総称して区別しています。古伊万里の定義についには諸事あり、「初期伊万里の後、寛永あたりから上手物の輸出盛んだった享保まで」という説や、明治初期の印判手も古伊万里と呼んでいる場合もあるようです。
古伊万里の歴史の中で、慶長末期から万治の頃まで(1610年~1660年頃)の約50年間の作品は、初期伊万里とされています。初期伊万里は、白磁に青一色で模様を表した染付磁器が主で、絵付けの前に素焼を行わない「生掛け」技法を用いている点が特色です。初期伊万里は、 まず関西方面に広がり、その後寛文年間(1661~1671)ごろに伊万里に来ていた商人によって江戸などの関東方面へも広がっていきます。さらに、伊万里からの海路の発達に伴い、玄界灘を通り日本海側各地へ行く航路と、瀬戸内海を通って大阪方面への航路により日本全国に広まっていきます。このように流通の発達により伊万里焼は武士や公家だけでなく、一般の人々の間にも広まり、東北や北海道などでも江戸時代に焼かれた古伊万里の茶碗や皿が数多く残されているそうです。
1659年(万治2年)より、ヨーロッパへの輸出が開始されたと言われていますが、それから約100年間に多くの古伊万里が海を超えて、ヨーロッパにもたらされました。
1690年代に入ると、染付の素地に赤、金などを多用した絵付を施した「古伊万里金襴手」が作られるようになり、この様式のものが主にヨーロッパ向けの輸出品とされたと言われています。当時のヨーロッパでは,神秘的な東洋の憧れからか、部屋を東洋の焼物で飾ることが王族・貴族の間で流行していたようです。
また、古伊万里には、金襴手のほか染付、染錦などがありますが、このうち、特に上手のものを指して「献上手」と呼び慣らされている古伊万里色絵の一群があります。輸出向けの「献上手」は、珠玉の厳選品として強い引き合いをえたとみられており、ドレスデン国立美術館の蔵品中にも、国内静嘉堂文庫蔵品の逸品「色絵鳳凰唐花文十二角鉢」等とほぼ同等の伊万里錦手上物の十二角鉢の類や、またマイセンの倣製品にも「色絵唐花文十二角鉢」があると言われています。また、18世紀前半の伊万里錦手の最盛期において、最も人気があったのが五艘船の文様とされています。
古伊万里は、骨董の分野でも人気がありますが、正真を精巧に模倣した贋作が多く出回っています。贋作に汚れや擦り傷を故意につけて古く見せようとしたり、金直しや銀直しを施すという悪質な贋作も出回っているそうです。美術品級の古伊万里から、江戸後期~幕末期の大皿や蕎麦猪口等の一般的な古伊万里食器で幅広く偽造されており、古伊万里の贋作の中には極めて巧妙なものがあるので注意が必要です。