日本の六古窯とは、日本古来の陶磁器窯のうち、中世~現在まで生産が続く代表的な6つの窯の総称で、「常滑焼」「越前焼」「信楽焼」「瀬戸焼」「丹波焼」「備前焼」を指します。
やきものは土器から始まったといわれますが、日本では縄文時代に先住民族が縄文土器という独特やきものを作ったのがはじまりとされています。縄文土器が弥生式土器、土師器、須恵器と発展し、鎌倉時代に入ると、それまでより高温で焼いた本格的な陶器がつくりはじめられました。
日本六古窯は中世六古窯のことで、すべては須恵器、土師器、瓷器のいずれかの系列に属しています。日本六古窯の常滑・越前・信楽・瀬戸・丹波・備前の窯場は朝鮮半島や中国大陸から伝わったその他の窯とは区別されています。六古窯の他にも日本全国各地で鎌倉時代の窯跡が数多く発見されていますが、いずれも淘汰されていったといわれています。六古窯は、良質の器を安く効率良く生産し、各地へ販路を拡大して産業として根付いたものです。
瀬戸(現在の愛知県瀬戸市)で、初めて釉をかけた陶器が大量に焼き始められた頃と同じころに、常滑、越前、信楽、丹波、備前でも大量に陶器を産する窯場が現われたとされています。
「瀬戸焼」の成立時期については、鎌倉時代の中頃といわれている場合が多く、加藤四郎景正が、宋(中国)より施釉陶器の技法を伝えたのが瀬戸焼の創始とされています。瀬戸は中世古窯における唯一の施釉陶器を製造し、独自の道を歩んでいる白瓷の系譜に属する施釉陶器です。瀬戸の東南部にある猿投山山麓でやきものづくりが始まったとされ、現在も瀬戸で連綿と続く瀬戸焼ですが、瀬戸物という陶磁器を指す言葉としても一般名詞化しています。
「信楽焼」は須恵器の流れをくみ、12世紀の末、平安時代末から始められたと考えられています。信楽焼は現在の滋賀県甲賀市信楽を中心に作られ、一般的には狸の置物が有名です。信楽特有の土味を有し、温かみのある火色の発色と自然釉によるビードロ釉と焦げの味わいに特色があります。信楽の土は、耐火性に富み大物づくりに適するとされますが、小物づくりにおいても細工しやすい粘性とされ、また茶陶としても発展しています。
「備前焼」は岡山県備前近郊で焼かれたやきもので、12世紀末頃から始まったとされます。須恵器の流れを組み、すり鉢、壷、甕など雑器が作られていましたが、室町時代に入り茶の湯が盛んになると、備前焼の茶器の生産がされるようになりました。江戸時代には備前藩主池田光政公が備前焼を保護奨励し、細工物といわれる布袋、獅子などの置物や香炉なども作られるようになり、朝廷、将軍などへも献上されたようです。備前焼は釉薬を一切使わず、酸化焔焼成により堅く締められた赤みの強い味わいや、窯変によって生み出されるひとつとして同じ模様にはならないのが特徴です。
兵庫県の「丹波焼」の発祥は平安時代末期から鎌倉時代のはじめといわれています。桃山時代までは「穴窯」が使用されていましたが、1611年ごろ朝鮮式「登り窯」が導入され、同時期に取り入れられた蹴りロクロとともに、伝統技術を今日に受け継いでいます。当初は壺や甕などが主に作られていましたが、江戸時代前期に小堀遠州等の指導により、茶入・水指・茶碗などで名器を生み、江戸時代後期には篠山藩の保護育成により、直作、一房、花遊、一此等の名工が腕を競いあって丹波焼の名を高めたといわれています。
須恵器系に属する「越前焼」は現在の福井県武生市の北西に位置する織田町、宮崎村を中心に焼かれていましたが、他にも加賀や狼沢などの窯があります。備前焼は平安時代末期に始まったとされ、主に壺、甕、すり鉢が生産されていましたが、宗教的色彩を持つ経筒を納める甕や三筋壺なども作られていたそうです。硬くて丈夫である越前焼は、釉薬を用いずに高温で焼成されるときに薪の灰が器に流れ出し、溶け込む自然釉の風合いで知られています。
「常滑焼」は、平安時代末期に知多半島の丘陵地を利用してやきものを焼く窯が築かれるようになったことが始まりで、室町・安土桃山時代には茶の湯や生け花用品が主に作られていました。江戸時代中期までは甕、江戸時代末期からは、茶の湯や生け花用品に加え、暮らしの器などが主に作られました。明治時代に入ると、土管・洗面器や便器等の衛生陶器・タイル・植木鉢等も盛んに生産されました。常滑は豊富で良質な陶土に恵まれ、原料に含まれている鉄分を赤く発色させるのが特徴となっています。土肌を生かした製品、釉を施した製品等々、色々な製品が揃っています。
六古窯は日本生まれ日本育ちの、生粋の日本のやきものですが、大陸の製陶方法や技術と合流し、その方法や技術を取入れて今日まで隆盛を続けました。
六古窯産地の首長が一堂に会し、シンポジウムや交流事業などを行う日本六古窯サミットなども開催されています。