李朝陶磁器を買取ります
李朝陶磁器は高麗の次の王朝である李氏朝鮮と呼ばれる朝鮮半島最後の統一国家の時代に作られた陶磁器で、アマチュアリズムを感じる事の出来る焼物としても知られています。
しかし、およそ500年という長い歴史を持つ李朝磁器は、最後の官窯である分院里窯も民営化されると、栄光ある歴史の幕を閉じる事となりました。
李朝陶磁器は李氏朝鮮時代初期に鉄分を多く含む土にきめ細かい白土釉で化粧を施し、透明釉を掛けて焼成を行う「粉青沙器(ふんせいさき)」と呼ばれる磁器が主流でしたが、後に消滅し白磁に転換しており「李朝白磁」と呼ばれています。
李朝白磁は高麗青磁と比較すると華麗さでは見劣りする部分がありますが優美さを感じる事ができ、それは朱子学では白が高貴で気高い色だとされているためだと考えられています。
また儒教での白は王族のみに許されており、一般には白磁の使用が禁止されていました。
李朝陶磁器はソウル周辺で焼かれており、李朝初期の道馬里窯(とまりがま)、李朝中期の金沙里窯(くむさりがま)、李朝後期の分院里窯(ぶんいんりがま)の3つの官窯に大別する事が出来ます。
李朝初期は粉青沙器の他にも白磁が焼かれ始めるようになり、道馬里窯の白磁は酸化コバルトを用いて絵が描かれ始め、優れた作品が焼かれていましたが数が少なく貴重とされています。
李朝中期は、豊臣秀吉や清軍の侵略により李朝磁器も大きく影響を受けた時代で、白磁の生産の他にも鉄砂(てっさ)が盛んに焼かれており、金沙里に窯が移ると白磁や染付を中心に焼成されるようになりました。
中でも余白を残し簡潔に草花文が表現された秋草手は高い評価を得ており、鮮やかな紅色は色絵の生まれなかった李朝磁器で最も華やかだとされています。
李朝後期は、分院里窯に移り、中国から輸入されるコバルト顔料が潤沢になり染付の生産が盛んになり、金沙里窯に負けず劣らずの出来栄えでした。
しかし、需要の拡大をしていきましたが、国力の低下により需要に追い付けず素地・成形・文様などが次第に俗悪化していったと評価され、文房具だけは優れた技法で最も特徴を発揮していた事から、当時の文人たちがこぞって買い求めていたそうです。