安土桃山時代から江戸時代初期の大名、仙台藩祖。
1567年8月、米沢城主・伊達輝宗の嫡男として生まれる。幼名は梵天丸。幼い頃に疱瘡を患い、右目を失明する。「独眼竜政宗」という呼び名は後世に付けられたものである。17歳で家督を相続する。父である輝宗が畠山氏に人質として捕えられ、連れ去られようとした時、父もろとも敵方を鉄砲を射殺するという不幸な出来事があったが、その後、徐々に領土を拡大し、1589年に蘆名氏を討ち破るに及んで奥州南部の大部分を所領とし、弱冠23歳で大大名に成長する。
しかし、中央では豊臣秀吉による天下統一事業が進んでおり、政宗のところにも隣国との停戦命令が来ていた。それを黙殺していたが、秀吉が小田原城攻めに乗り出し参陣を命じられ、やむなくこれに従う。ただ参陣が自国内の内紛に手間取り、2か月遅れとなったため幽閉される。死を覚悟し白装束で秀吉と会うが、謝罪が受け入れられ旧蘆名領を除く本領が安堵される。
1592年に朝鮮攻めに参加する。1600年の関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍につき、60万石を拝領し、翌年に仙台に移る。1613年には家臣・支倉常長をスペイン・ローマに派遣するなど海外交易に興味を示すものの、幕府の鎖国政策により失敗する。
1614年に始まった大坂の陣に参陣する。これが最後の戦となる。徳川幕府が盤石な体制となり、内政に尽力を注ぐ。徳川3代将軍まで仕え、特に家光からは多大な信頼を得る。
1636年5月、逝去。享年70歳。
1567年 米沢城主・伊達輝宗の嫡男として生まれる。
1577年 元服。藤次郎正宗と名乗る。
1581年 初陣し、相馬氏と戦う。
1585年 父輝宗が畠山義継に拉致され、父もろとも義継を打つ。
1589年 蘆名氏を摺上原の戦いで破り、奥州南部の大部分を領土とする。
1590年 豊臣秀吉の小田原攻めに参陣。
1592年 朝鮮攻めに参陣。
1600年 関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康の配下に入って行動する。
1613年 支倉常長を遣欧使節としてローマに派遣。
1614年 大坂冬の陣に参陣。翌年大坂夏の陣にも参陣。
1636年 逝去。