壺屋焼を買取ります
壷屋焼は沖縄県那覇市にある壷屋地区と読谷村などで作られる焼物で、灯油窯やガス窯も使用されていますが登り窯を中心とし、現在まで伝統的な技術や技法が受け継がれています。
壷屋焼は沖縄で「やちむん」と呼ばれ食器や泡盛の容器として愛用されてきた親しみある焼物で、その歴史は琉球王国の時代までさかのぼります。
琉球王国は、島津藩の侵攻により中国の焼物が琉球に輸入されなくなると琉球の尚寧王は島津藩に朝鮮人陶工の派遣を要請し、琉球国産の焼物生産に取り組みます。
壷屋焼はもともと壷屋で作られていた訳ではなく、陶器産業振興のために首里の宝口、沖縄市(旧美里村)の知花、那覇の湧田にあった窯を、良質の土や水が豊富で薪や特殊な土が調達しやすく港に近いという好条件がそろっている壷屋に集めた事で「壷屋焼」の歴史が始まりました。
その後、廃藩置県によって官窯から民窯へと転換しますが、本土の有田焼が大量に流入した事により壷屋焼は存亡の危機に直面しますが、小橋川永昌や金城次郎が民芸運動に賛同し中心人物の柳宗悦 浜田庄司 河井寛次郎などと交流が始まった事で再び注目されるようになりました。
壷屋焼は釉薬を用いて沖縄独自の色合いと図柄を持つ「上焼(じょうやち)」と、釉薬を使用しない南蛮焼とも呼ばれている「荒焼(あらやち)」の2つに大別する事ができ、素朴で力強く、色やデザインに異国情緒が感じる事が出来るのが特徴的です。
また使用する材料も細かく指定されており、上焼は古我地、喜瀬、喜名などで産出される粘土を使い、釉薬には具志頭長石や珊瑚石灰を用い、荒焼は黒土(ジャーガル)赤土(島尻マージ)を混合して作られます。
また、シーサーや抱瓶(だちびん)で用いられる手びねりや赤土の素地を隠すジーガキー(化粧掛け)と呼ばれる技法の他にも、タックワァサー(盛土の貼り付け)、串がき、印花模様、線彫り、掻き落としなどの技法で装飾し、二度焼きではなく焼成は一度のみ行うという特徴もあります。
南国をイメージさせる海の生物や花のモチーフが多く描かれている壷屋焼は現在でも根強い人気があります。
また現在の壷屋焼は若手の作家も奮闘中であり、沖縄県立芸術大学では教育機関として作陶技術の伝授を行うなどしています。