室町時代から江戸時代に活躍した刀工で、同銘の刀工が存在しますが
事実上の祖は二代目兼定の「之定」だと言われています。
二代目兼定は「定」のウ冠の下に「之」で銘を刻むことから
他の兼定と区別するために「之定」と呼ばれるようになりました。
高い技術を認められ、会津藩のお抱え刀鍛冶となった二代目兼光は
16歳(推定)の時に藩主から「和泉守」を受領しました。
以後は銘に「和泉守兼定」と刻んでいます。
その後も江戸時代末期まで代々の兼定は
会津藩のお抱え刀鍛冶として活躍しました。
そして、江戸時代末期になると、
会津藩主である「松平容保」が京都守護職に任命されました。
当時の刀鍛冶であった「十一代兼光」も会津藩と共に京都へ上洛し
修業を続け「和泉守」を受領しました。
二代目と同様、以後は銘に「和泉守兼定」と刻んでいます。
この時期の会津藩は「新撰組」と行動を共にしており
十一代兼光も新撰組隊士の為に作刀を行っていました。
そして、この時に新撰組副長「土方歳三」の
佩刀となる刀も打ったと伝えられています。