江戸中期に越前国(福井県)で活躍した装剣金工師です。
家業は酒造業を営んでおり、本名は柏屋忠八といいます。
雪山、蟻行子、含章子などと号し、写生彫刻に巧みで江戸の横谷宗珉と並び称され、「東の宗珉、西の長常」といわれており、江戸期の京の三名工の一人でもあります。
ちなみに江戸期の京の三名工とは一宮長常の他に、大月光興、鉄元堂正楽とされています。
幼い頃に京都の金工業を営む家の丁稚となり、使いに出かける度に絵草子屋や書店前に立ち寄り書画を熟覧し、夜間寝静まったあと見てきた書画を描いていたそうで、その腕と感性は確かなものでした。
そのため、彫金は山城国(京都府)で活躍していた保井高長に、画は播磨国(兵庫県)で活躍していた石田幽汀に学び、独立後は高彫色絵や日本画の筆意をそのまま金属に表した片切彫の技法を編み出し、小柄(こづか)、笄(こうがい)、目貫(めぬき)、縁頭(ふちがしら)などを手掛けていました。
また、円山応挙とは親しい間柄であったそうで、下絵に巧みでその絵画的な構図が人気でした。
一宮長常の名声は瞬く間に広がり、光格天皇に御衝立の金具を調進した貢として「越前大掾」を受領しました。
そのため、「越前大掾」を受領した後に制作された作品は、「一宮越前大掾源長常」と落款されています。
しかし、一宮長常の作品は出来の良いものから悪いものまでの幅が大きいと評価されている部分もあり、「越前大掾」を受領した「おごり」が原因なのではと噂されていたようです。