正宗や村正と並んで、最も名高い孫六兼元が打った刀で、
孫六兼元の刀の中でも最高傑作と評されています。
「真柄切」や「真柄切兼元」とも呼ばれています。
1797年に試し斬り名人、五代目山田浅右衛門吉睦がまとめた
「懐宝剣尺」によると、200~300の刀で試し切りを行った際に
「青木兼元だけは別格の切れ味を誇る」と記されいます。
切れ味の良い刀を「業物」といいますが、
青木兼元は業物の最上級である「最上大業物」とされました。
青木兼元にも他の刀と同じく、伝説や伝承が残されています。
その中で、名前の由来になったといわれる伝承は
1570年に起きた姉川の戦いの中の出来事とされています。
姉川の戦いは朝倉・浅井と織田・徳川の間で起こった争いで、
数的優位に立った織田と徳川の勝利となりました。
しかし朝倉の家臣であり、北国一の豪者といわれていた真柄直隆と
真柄直澄兄弟、真柄隆基らの必死の抵抗が続いていました。
大太刀をまるで風車のように振り回す彼らを誰もが恐れていましたが
青木一重らが立ち向かい、打ち取ることができました。
この時、青木一重が使用していた刀を「青木兼元」と名付け、
別称の「真柄切」や「真柄切兼元」も真柄らを打ち取った事から
呼ばれるようになったと言われています。
また、青木兼元の名を高めた人物は豊臣秀吉であると言われています。
豊臣秀吉の生涯を綴った伝記である「太閤記」によると
当時の刀の中から実用向きで切れ味の良い刀として兼元に注目しており
形見分けの品として兼元の刀が四振り登場したとされています。
この事から兼元は「豊臣秀吉が注目した刀」として名を高めました。
その後は豊臣秀吉に仕えていた福島正則や山内一豊らが
実践刀として兼元を用いたと考えられ、価格が上昇しました。
数々の武将を魅了してきた青木兼元は重要美術品に指定されています。